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2012年12月 6日 (木)

皇宮警察・警視庁・東京消防庁などの殉職者慰霊施設・弥生慰霊堂について

 国のために命を捧げた人々に対して、神社祭式での慰霊をやめて無宗教の慰霊施設となってしまった先例がある。それは、千代田区の北の丸公園にある皇宮警察・警視庁・東京消防庁などの殉職者慰霊施設・弥生慰霊堂である。

 この施設は、明治十八年に『彌生神社』として創建された。以来、毎年、神式による合祀・慰霊祭を行ってきた。終戦後、神道指令の影響で名称が『彌生廟』と改められ、奉賛會主催の慰霊祭という形に変化した。しかし戦前・戦後を通じて神道祭式には変化はなかった。昭和四十七年、連合赤軍の浅間山荘事件で殉職した警察官の合祀祭も神道祭式で行われた。

 

ところが、昭和五十八年、神道祭式からいわゆる無宗教方式に変更された。この変更について警視庁は「法律を守る立場にある警察としては、政教問題が取りざたされているときでもあり、どこからも文句のでない無宗教方式へ変更した」と説明した。小生も何回か参拝しているが、本殿は神社形式の建物である。しかし鳥居などは取り外されている。

 

東京都慰霊堂は、仏教施設であり、そこで行われる春秋の慰霊大法要には、都庁・都議會の幹部が公式に参列している。殉職警察官を神道祭式で慰霊しても何ら問題はない。殉職者への慰霊というきわめて重要な行事を、わが國伝統信仰たる神道祭式で行わないというのは、敬神崇祖というわが國の倫理精神の基本そして日本伝統信仰たる神道祭式を、警視庁が否定したということである。

 小生は何度か、警察庁長官及び警視総監に対し、殉職警察官慰霊施設は日本伝統信仰に基づく慰霊すなわち神道祭祀に戻すべきであると要望しているが、いまだに実現していない。殉職警察官慰霊施設の無宗教化が、最近の警察官の道義精神希薄化・不祥事続発の原因の一つがあると考える。「無宗教」とは霊魂の否定であり道義の否定である。

信教の自由が保障され政教分離が行われている国においても、国家的な追悼行事はその国の伝統的な宗教の祭式によって行われている。わが國に対して、政教分離を規定した現行憲法を國際法に違反してまで押しつけたアメリカも、ニューヨークにおける同時テロの犠牲者の追悼式を、ブッシュ大統領及び歴代大統領が参列して、堂々とワシントンのナショナル大聖堂というキリスト教会で行っている。この式典でブッシュ大統領は「我々は悲しみと敵に打ち勝つ固い決意で結束している。あらゆる手段を尽くしてこの悪を追及する」と戦勝を誓った。英国ではロンドンのセントポール寺院でエリザベス女王・ブレア首相参列のもとに追悼式典が行われ、ドイツではデュッセルドルフのヨハニス教会で中央追悼ミサが行われた。

 また、アメリカでは、大統領就任式もキリスト教の牧師・神父の祈祷が行われ。大統領は聖書に手を置いて宣誓を行っている。つまりキリスト教は、アメリカの事実上の國教なのである。しかし、アメリカにおいてキリスト教以外の宗教が弾圧され、信教の自由が侵されるということはない。

 「政教分離」とは一神教國家における特定の教団宗教と政治権力の結合による信教の自由の侵害を防ぐための<原則>であって、「國家及び自治体」と「宗教」とを全く無関係にするという<原則>ではない。

 さらにいえば、わが國は建國以来天皇を中心とする祭祀國家であり信仰共同体である。共同体としての日本國家と神社神道の本来一体なのである。そしてそれは決して教団宗教を圧迫し否定することにならないことは、わが國の宗教史を見れは明々白々である。

 國家民族のために一身を捧げた護國の英霊を、わが國伝統祭式によって靖國神社に公的にお祭りし慰霊し顕彰し感謝の誠を捧げることが、「政教分離」の原則に違反するなどという批判は全く誤りである。

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