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2012年12月 6日 (木)

『野分祭』における伊藤祐靖氏の講演内容

『野分祭』における伊藤祐靖氏の講演内容は次の通り。

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「昭和四十五年十一月二十五日は、小学校一年生。今でも鮮明に覚えている。私は、今年四十八歳。私の父は、中野学校七期。小野田さんと同期。小野田さんが生還後、昼のワイドショーに小野田さんが出ていたのを父と一緒に見た。野坂昭如氏らと討論していた。野坂氏は小野田氏に対して否定的意見だった。小野田さんは討論に最後に『この国を恋い焦がれて三十数年間戦ってきた。しかし今の日本は恋い焦がれてきた日本ではなくなっている。野坂、お前を必ず殺す』と言った。実際にフィリッピンで三十数人殺してきた人が言った言葉なので、私は凍りついた。私は一緒にテレビを見ていた父に『人を殺したら死刑になったちゃうよね』と言ったら、父は『死刑になってねやらねばならないことがある』と言った。それから私は規則なんてどうでもいいんだと思うようになった。『罪になってもやらねばならぬことがある。褒められてもやってはならぬことがある』という父の真意が分かるの二十年かかった。

特待生で日体大に入った。そして海上自衛隊に入った。能登半島事案の時、イージス艦の航海長をしていたので緊急出航がかかった。警告射撃によって北朝鮮の船が停まった。相手の船に乗り込んで立ち入り検査をするという発想はなかった。相手の船を沈めるしかない。相手は自爆すると分かっていた。自衛隊員は行けば殺される。防弾チョッキもない。拳銃を持ったことのない者に拳銃を持たせた。『十分間で遺書を書け』と命じた。しかし十分間で隊員の表情が豹変した。その時の隊員の顔は特攻隊員の顔と同じだと思った。すっきりと美しいという表現が一番正しい。清々しい。自身満々の顔。『ジャンボ宝くじが当たらないか』と言っていた若者がたった十分間で変わった。特攻隊員も絶対にこの顔で行ったと思った。『あとは宜しくお願いします』と一人の者が言った。小渕総理が命令権者では嫌だと思った。真っ先に浮かんだのは、天皇陛下だった。陛下のご命令で彼らを出してやりたいと思った。天皇陛下が公のために私を捨てようとしておられることは分かる。そういう人のために死にたいと思った。工作船は走り出したので、結局隊員たちの出撃は無かった。

特別警備の必要性を感じた。これを転機にして日本初の特殊部隊『特別警備隊』ができた。私は特殊部隊の創設から関わった。八年間いた。

退職後は、技術や経験を身に付けるために、ミンダナオ島に四年間いた。二十一歳の女性の弟子がいた。射撃も刃物もうまい。海洋民族の戦い方、身の守り方を勉強した。技術の交換をした。

その女性の弟子は私に『あなたの國はおかしい。私の部落は三回敵に占領されたが、隙があったら相手の首を取る。占領されていても自分たちの習慣を守る。掟は長老が作る。あなたの國は太平洋の向こうの人が作った掟。おかしい。あなたの國の先祖はアメリカより駄目な掟しか作らなかったのか。何故掟を戻さないのか』と言った。真実痛いところを衝かれた。日本は掟を元に戻さねばならない。憲法を変えなければ駄目。合わない掟を守っているから駄目。

尖閣衝突事件が起こった。あんなぶつかり方をされたのに無罪放免にして帰したのは誰か。海保や自衛隊や警察の制服組の方々に『国民はみんな応援しているよ』という思いを伝えたいために、魚釣島に国旗を立てた。憲法を変えなければこの国は駄目になる。このまま駄目になったら英霊に会わす顔が無い。何とかしなければならない」。

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