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2012年11月28日 (水)

但野正弘氏(水戸史学会理事)の講演内容

日本学協会主催『先哲に学ぶ会』における但野正弘氏(水戸史学会理事)の講演内容。

「九代藩主徳川斉昭(烈公)は、十一人の藩主の中では義公と共に重要視されている。幕末の歴史に大きく関わった。西郷隆盛は、藤田東湖を『東湖先生は山賊の親分のようでごわすなあ』と言った。志士たちから慕われた。

斉昭は、幼名・敬三郎。諱は紀教、後に斉昭。諡は烈公。七代藩主・武公治紀の三男。三十歳まで部屋住み。養子にも行かなかった。武公が、長男で八代藩主斉脩(なりのぶ)がひ弱なので斉昭をその後に据えることが出来るようにした。

烈公はあらゆる武道・芸術に秀で和歌を詠んだ。鉄砲が大好きで、一日一千発撃った。琴・琵琶・簫の楽器をこなし、書画に優れていた。特に隷書・篆書も書いた。安陣車(あんじんしゃ)という荷車の上に鋼鉄を張った部屋に一人が入り、外部からの攻撃を防ぎつつ中から六角形と円形の窓から小銃が発射できるようになっている戦車の原型を作った。今も東照宮置かれている。潜水艦の設計図も作っている。数学も得意。六連発の短筒も持っていた。

性格的に激しいところがあり、根回しを得意とせず、反対派の強くなった。農民に対する細やかな心があった。『朝な夕な 飯食ふごとに 忘れじな めぐまぬ民に めぐまるゝ身は』という歌を詠んだ。この歌に感動したのが新渡戸稲造。『農人形』を作って農民たちに感謝した。そういう意識を持って藩政にあたった。

数え年三十一歳で藩主に就任。従三位権中納言になった。引退後は水戸黄門と呼ばれた。義烈両公が黄門と呼ばれた。人事一新、戸田忠敞・藤田東湖・会沢正志斎ら新進気鋭の藩士を登用。天下の魁を目指した大改革を構想した。

水戸藩主は御三家の中でも唯一江戸常府を定められ、年一回の参勤交代は無かった。藩主は常に江戸に居て、用事がある時だけ水戸に行った。八代目藩主は一度も水戸に帰らず、十代目藩主は明治なって帰った。江戸の藩主と藩士、水戸の城代と藩士という二重生活が財政窮乏の原因。烈公は水戸領内に土着した。

ペリー来航以来、四回の建白書を提出したが、老中によって潰された。幕府の大きな誤算。藩校・弘道館を建設。『弘道館記』は全国に影響を与えた。天保十五年(一八四四)五月六日、幕府から隠居を命ぜられ、四十五歳で十三歳の長男に藩主を譲り、駒込の別邸に幽閉状態になった。斉昭の多くの子女たちは、各地の藩主・藩主夫人などになった。

井伊直弼を暗殺されたのではない。正々堂々と討ち取ったのだから明殺である。桜田門外の変から明治元年までは八年。桜田門外の変は歴史を躍進せしめたが、武力による要人襲撃が相次いで起こるようになったのも事実」。

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