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2012年8月 4日 (土)

三島由紀夫氏の美感覚について

三島由紀夫氏は『機能と美』と題するエッセイ(昭和四十三年九月発表)で次のように書いてゐる。「人體は美しい。女が美しければ、男も美しい。しかしその美しさの性質がちがふのは、ひとへに機能がちがふからである。飛行機の美しさは飛行といふ機能にすべてが集中してゐるからであり自動車もさうである。しかし、人體が美しくなくなったのは、男女の人體が自然の與へた機能を逸脱し、あるひは文明の進歩によって、さういふ機能を必要としなくなったからである。男には闘爭といふ機能がある。女には妊娠や育兒といふ機能がある。この自然の與へた機能に不忠實なものが美である筈がない。男の體は、闘爭や勞働のための、運動能力とスピード感と筋肉によって美しく、女の體は妊娠や育兒のための豊かな腰や乳房やこれを包む皮下脂肪のなだらかな線によって美しい。」

私は美術展などで、美人画を見るのが好きだが、上村松園などの美人画は必ずしも「豊かな腰や乳房やこれを包む皮下脂肪のなだらかな線」が描かれてゐるわけではない。もっとも、上村松園や鏑木清方や伊東深水などの美人画は、服を着た女性の美しさを描いてゐて、肉体美を描いてゐない。しかし女性美は表現されてゐる。

不思議なことに、日本の絵画や彫刻などには、「美人画」はあっても「美男画」といふのはあまりない。「美男画」といふ言葉すらない。ギリシアなど欧米の美術には、男女を問はず人間の肉体美を描いたものが多いが、日本の美術には男性の肉体美を描いてゐる作品にお目にかかったことはない。

日本の伝統的美感覚には「肉体美」を鑑賞するといふ感覚は殆どなかったのだと思ふ。日本の彫刻は、江戸期以前は、そのほとんどが仏像である。与謝野晶子は「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」といふ歌をのこしてゐる。

私は恥ずかしながら、若い頃から闘争とか肉體労働といふものにあまり縁がなかった。労働は、少しはしたが、肉体のぶつかり合ひの戦ひ・闘争はしたことがまったくない。だから三島氏の言はれる通り、私の肉體は、ギリシア彫刻の男性像のやうな美しさは微塵も無い。かと言って、私はその事を恥じる気持ちはあまり無い。致し方のないことだと思ってゐる。

三島由紀夫氏は同じ文章で、「男の裸がグロテスクだなどといふ石原慎太郎氏の意見は、いかにも文明に毒された低級な俗見である。」と書いてゐる。石原氏がそのやうなことを言ったとしてもそれは石原氏の感覚であって、「文明に毒された」と断言して良いであらうか。石原氏も若い頃から今日まで私から見れば相当男らしい戦い・闘争の人生を歩んできたと思ふ。

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