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2012年8月17日 (金)

『東京国立博物館一四〇年特集陳列・生誕一五〇年森鷗外』参観

今日参観した。『東京国立博物館一四〇年特集陳列・生誕一五〇年森鷗外』は、「鷗外森林太郎は大正6年(1917)、帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)に任命され、同11年に在職のまま死去しました。この時期は、世界的にはロシア革命、第一次大戦の終結、社会主義・民族主義の台頭、国内では、デモクラシーの発展、米騒動、政党内閣の成立など大きな時代の変わり目でした。鷗外は、4年余りの在任中誠実にその職務を務め、創設から 50年近くを経た博物館を、時代の要請に応じた姿に改める役割を担いました。決裁を待つ書類に目を通しつつ、展示の改革、来館者の拡大、調査研究成果の公開に取り組み、当時博物館の管轄下にあった正倉院宝物の管理や上野公園の運営の改善などにも意を用いました。また、自ら館蔵の古典籍をひもとき、厖大(ぼうだい)な解題を書き残しました。鷗外自身はこの時期の業績についてほとんど語ることなく亡くなりましたが、現在まで残された公文書等からは、その精励ぶりをうかがうことができます」(案内書)との趣旨で開催された。

「緒方洪庵追賁之碑拓本」(森林太郎撰、日下部東作書)、「山房礼記」(森林太郎著)「正倉院の栞」(森林太郎序、小野善太郎著)、「上野公園ノ法律上ノ性質」(館史資料)などを観る。

鷗外森林太郎は、団子坂上(当時の本郷区駒込千駄木町、今の文京区千駄木二丁目。小生の住む町の隣町)に長く住んでいた。軍医総監・陸軍省医務局長を退任した後、帝室博物館館長・宮内省図書頭に任じられた。大正六年から亡くなる大正十一年までその任にあった。鷗外は作家・軍医・考証学者・行政官として、それぞれ一流の業績を遺した人である。余り他人を褒めない永井荷風も、生涯鷗外を尊敬していた。

鷗外は、団子坂上の自宅から、馬に乗って上野公園の帝室博物館まで通ったという。当時の上野公園の敷地は帝室林野管理局管轄下にあり、いわば皇室の財産であった。しかし、現実には庶民の公園として親しまれていた。公園内で色々な催しが行われた。ある時『空中文明博覧会』というのが開催され、公園及び博物館の静謐さが保たれなくなる事態となった。そこで鷗外は、開催を許可した上野警察に抗議文を送った。さらに、上野公園を帝室林野管理局管轄下から除外することにも反対した。その時、鷗外自身が執筆した文章が「上野公園ノ法律上ノ性質」である。

小生は、森鷗外のお孫さん(森類氏のお嬢さん)と小学校の同級生であった。母は森鷗外のお嬢さんの小堀杏奴さんと親しくお付き合いいただいていた。また、二松学舎大学で漢学を教わった青洲・濱隆一郎先生は、鷗外が帝室博物館館長であった時、その部下であられた。

           ◎

そして常設展で、「菩薩立像 飛鳥時代」、「国宝 医心方 巻三十 証類部」「高野切本古今和歌集(巻第十八断簡)」「一休宗純筆・教外別伝不立文字」「高村光雲・老猿」「重文 太刀一文字」「重文 真如苑大日如来像」「重文 光得寺大日如来像」「国宝 刀・相州正宗」「蒙古襲来図 菊池容斉」「横山大観 潚湘八景」「重文 薬師寺十一面観音立像」などを観た。

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「高村光雲・老猿」

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庭園

「重文 太刀一文字」

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「国宝 刀・相州正宗」

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