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2012年7月17日 (火)

渋沢栄一史料館見学

本日参観した渋沢史料館は、「日本の近代経済社会の基礎を築き、生涯『道徳経済合一説』を唱え、実業界のみならず社会公共事業、国際交流の面においても指導的役割を果たした渋沢栄一[1840(天保11)1931(昭和6)]の全生涯にわたる資料が収蔵、展示」(案内書)されている。平成十年三月増設、開館された。

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渋沢栄一像(史料館内)

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渋沢栄一像(史料館玄関横)

まず史料館本館に隣接する旧渋沢庭園をめぐる。ここは渋沢栄一邸の一部で、渋沢栄一が明治十二年から亡くなる昭和六年まで、初めは別荘として、後に本邸として過ごした「曖依村荘(あいいそんそう)」とよばれる邸宅跡。往時は二万八千㎡の敷地に日本館と西洋館からなる本館をはじめ色々な建物が存在したが、その多くは昭和二十年の空襲で消失した。

庭園には国の「重要文化財」に指定された大正期の二つの建物、「晩香廬」と「青淵文庫」が庭園とともに当時のままの姿で残っていた。

「晩香廬」は、大正六年に落成した洋風茶室で、渋沢栄一の喜寿を祝って、現在の清水建設(株)が贈った。栄一自作の漢詩の一節「菊花晩節香」から命名された。内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとして使用した。

青淵文庫(せいえんぶんこ)は、渋沢栄一の傘寿と、男爵から子爵に昇格したお祝いを兼ねて竜門社(当財団の前身)が贈呈した文庫で、大正十四年に竣工。建設中に関東大震災に遭い建物の一部は被害を受けた。また、書庫に収蔵する予定であった「論語」をはじめ多くの漢籍も保管先で焼失した。震災後、建物は震災の経験を生かし再工事が行われ、主に接客の場として使用された。

史料館は、「郷里にて」「幕臣となる」「維新政府の一員に」「実業界を築く」「民間外交を担う」「社会公共事業を推進」「栄一と家族たち」「手紙に見る幅広い交流」という項目に分けて、「尊皇攘夷運動」に挺身した若き日から、逝去までの数多くの資料が展示されていた。渋沢の一生は、明治維新という大変革と近代日本建設の歴史の歩み特に明治大正昭和のわが国産業経済の発展そのものと言っても過言ではない。

渋沢栄一が書いた『家訓』第一条には、「常に愛国忠君の意を厚くして、公に奉ずることを疎外すべからず」と記されている。徳川昭武の従って欧州に赴いた際、パリから出した妻への手紙には、「楠公の妻のことを見習って、たとえ自分が死んでも息子の教育を良く頼む」という意味の人が記されていた。渋沢栄一氏は、生涯、尊皇愛国の精神を貫いた方であった。

渋沢栄一氏は、幼少の頃より『論語』をはじめとした漢籍を学んだ。それが血となり肉となっていたと思われる。経済人・実業家としての基本姿勢は『論語』を拠り所にした「道徳と経済との合一」であった。

渋沢氏は、私の母校である二松学舎の舎長も務められた。明治十六年に、渋沢栄一氏は、亡くなられた千代子夫人の「碑文」を二松学舎の創立者・三島中洲先生に依頼されたことが縁となり、渋沢氏は中洲先生を尊敬するようになった。「義利合一説」「経済道徳節」「論語算盤説」は渋沢・三島両氏に共通する思想となった。二松学舎大学では、創立百周年を記念して渋沢栄一氏の『論語講義』を出版した。

さらに、私が高校時代書生をさせて頂いた野依秀市先生は、若き頃に渋沢栄一氏に気に入られ、色々指導を受けると共に多大の応援を受けた。野依先生が主宰していた『実業之世界』誌に連載した渋沢氏の論語講義を『處世の大道』と題して昭和三年に出版された。

この二冊は、学者の論語講義ではなく、実際に実業の世界で活躍した方による論語講義である。所謂『活學、』即ち机上の空論ではなく生きた学問である。

今日初めて渋沢資料館を見学した。色々書きたいこともあるが、機会をあらためて書かしていただきたいと思う。

青淵文庫

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晩香廬

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