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2012年7月26日 (木)

公教育における「国歌斉唱」「国旗掲揚」について

公教育の場で、国歌を斉唱し、国旗を掲揚することに異議を唱へ、さらにそれを拒否し、妨害する行為が、教職員によって行はれてきた国は、日本以外にはないのではないか。少なくとも、私は聞いたことがない。日本は異常な國なのだ。

個人として、「国旗」「国歌」を受け入れ難いといふ思想を持つことは自由であらう。しかし、公教育・義務教育の場で、国歌を斉唱し、国旗を掲揚することは、「一般的に式典における慣例上の儀礼的な行為としての性質を持つ」のであり当然のことである。これに対して、「憲法違反だから慰謝料を払へ」などと訴訟を起こすことはまさに非常識であり異常である。

公教育の場で、国民としての最低限の良識・規範・紀律を守らせることが「強制」であるはずがない。教育の一環である。このやうな訴訟は、「漢字を強制的に覚えさせた」「掛け算の九九を強制的に覚えさせた」として訴訟を起こし、慰謝料を請求するのと同じ行為であり常軌を逸してゐる。馬鹿につける薬はない。 

国民としての儀礼・習慣を身につけさせることを目的の一つとする公教育の場においては、教師は率先して国民としての儀礼・習慣を実行して生徒に範を示さねばならない。それが与へられた職務であり使命である。

「多様性のある社会」とは、公教育の場で、儀礼として当然行はなければならない国歌斉唱を拒否する現象が多発する社会ではない。子供が教師の言ふことを聞かず、騒いだり、教室の中を動き回る現象を「学級崩壊」とは言っても、「多様性のある学級」とは言はないのと同じである。

この問題は、「思想、信条、表現、信教など精神的自由」とは全く無関係である。公教育・義務教育における紀律の問題である。「青信号で渡るのは嫌だから信号の色を赤に変えろ。無理に渡らせたから損害賠償を請求する」と主張するのと同じ理不尽な要求を規制するだけのことである。

日本国民としてごく普通の感覚を持った圧倒的多数が、異議を唱へず反対もしない事柄、当たり前の人たちが当たり前と思ふ行為を、否定し妨害することが間違ってゐるのである。

少数者の人権保護とは、少数者がどんな破壊活動・教育妨害行為をやっても規制も処罰しないことではない。そんなことが人権保護になるはずない。これまで「少数者の人権」とやらを守るために「多数者の人権」が無視され蹂躙されることが多くあった。これこそまさに民主政治を真っ向から否定する行為である。

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