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2012年5月 1日 (火)

『先哲に学ぶ会』における但野正弘氏の講演内容・その一

『第一回・先哲に学ぶ会』(

日本学協会主催)の「開会の辞」で永江太郎同協会常務理事は「現在をどうするかを考える場合、明治維新を学ばねばならない。そのためには水戸学とは何かを知らねばならない」と語った。

但野正弘植草学園短期大学名誉教授(水戸史学会理事)

「継承された水戸の心」と題して次のように語った。

「水戸藩は幕末において大変な混乱に陥った。安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変、筑波山の挙兵があった。武田耕雲斎は徳川慶喜に志を訴えるべく大子を出発、京に向った。幕府討伐軍軍艦田沼玄番頭意尊により三百五十二名が斬首された。また、弘道館戦争などもあった。維新後中央に登用されたものは少ない。水戸自身うちひしがれた。維新に恨みはあっても喜びは無く、水戸人は自信を失った。

十代藩主・徳川慶篤は明治元年に死去。慶喜の命で、パリ万博に行っていた徳川昭武が呼び戻され、第十一代藩主となる。その時お伴をしたのが渋沢栄一。

水戸に心を痛められた明治天皇は、明治八年、水戸藩下屋敷の小梅邸(言問橋の東・現在は隅田公園になっている)に行幸された。福羽美静・大久保利通も随行した。明治天皇は、花見を楽しまれ、お昼を召し上がった。その時、開けたことがない手文庫を開けられた。中から徳川斉昭が老中に宛てた手紙があった。それは、『外国と貿易をするのなら、出貿易にせよ。私を欧米に派遣してほしい』という文書だった。これは堀田正睦が拒否した。斉昭や藤田東湖が欧米に行っていたら歴史は変わった。斉昭は、『攘夷の主張を変えることは出来ぬが、開国は必要』と松平春嶽に話している。

明治天皇は感銘を深くされ、五月十五日、『花くはし櫻はあれと此やとの世々のこゝろを我はとひけり』という御製と、『朕親臨シテ光圀斉昭等ノ遺書ヲ観テ其功業ヲ思フ 汝昭武遺志ヲ継キ其能ク益勉励セヨ』との勅語を賜った。

御製に示された『世々のこゝろを』を尋ねることが水戸学の根本。水戸学は『大日本史』編纂によって究明され、幕末の危機によって深められた学問。

初代藩主・德川頼房公は、関ヶ原の合戦の三年後に徳川家康の十一番目の男子として生まれた。七歳で水戸城主となった。水戸は東北ではなく、東海道の一番北の外れに位置する。その北には東北雄藩があり、水戸は江戸を守るために重要なところだった。

それまでは常陸五十四万五千八百石は佐竹氏の領地だったが、関ヶ原の合戦では、会津攻略を命ぜられたが、石田三成と密約があったので動かなかった。そのため秋田に国替えとなった。そして家康は七歳の末子・頼房に二十八万石を与えた。

頼房は武将として豪快な性格であった。駿府城で家康から肝試しをされ、『天守閣から飛び降りるものはいないか』と言われ、『鶴千代(頼房の幼名)が飛びます。ただしご褒美として天下を下さい』と言った。家康が『飛び降りたら死ぬぞ』と言ったら、頼房は『死んでも天下を取ったという記録は残ります』と答えた。家康は德川秀忠に『頼房を大事にして守り刀と思え。ただし抜くな。抜くと自分が斬られる恐れがある』と言った。

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