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2012年5月 1日 (火)

『先哲に学ぶ会』における但野正弘氏の講演内容・その二

島原の乱の時、鍋島勝茂が島原城制圧で軍律に違反したとして処分されようとした時、頼房は徳川家光に『法を盾にして処分したら命をかけて幕府を守るものがいなくなる』と苦言を呈した。家光は処分をしなかった。

頼房は敬神尊皇の心を持っていた。乳母(めのと)だった武佐(後陽成天皇の女御中和門院前子の女官)の影響がある。また、頼房は四回上洛し、禁裏への敬慕意識を醸成した。寛永三年には長期間京に滞在。後水尾天皇の二条城行幸に砌、和歌の詠進が行われ、頼房が詠んだ『いく千代を かさねても 猶呉竹の かはらぬ風を 誰かたのまん』が一等の御撰となった。

寛永五年頃から水戸那珂川の初鮭一番鮭を禁裏に献上した。これは昭和の初めまで続けられた。頼房は京都吉田家の萩原兼従から唯一神道の伝授を受けた。幕府との関係意識においては、水戸家は徳川将軍家の親戚であって、将軍の家来ではないとの意識があった。

頼房は、自分の病状が重態になった時、世子・徳川光圀に殉死を止めるよう遺言した。このことを見習って四代将軍・徳川家綱は殉死禁止令を出した。

徳川光圀には二人の兄がいた。光圀は若い頃、青年の自由奔放な行動をした。正保二年、十八歳の時、『史記・伯夷伝』を読み、感動・反省そして実践。水戸の心が育まれる。歴史の価値・学問の重要さを認識し、『大日本史』の編纂を行なう」。

           ○

徳川家康・秀次・家光の三人は、朝廷尊崇の心はそれほど強くなかったと思われる。徳川将軍家の権威づけと德川幕府の全国支配の正当化のために、天皇・朝廷の権威を利用したが、天皇・朝廷を京都に事実上軟禁状態に置き奉った。また『禁中並びに公家諸法度』を作るなど、様々な手段を用いて、天皇・朝廷を圧迫し奉った。戦国時代を終焉させ、長い平和の時代を作った功績は認めるとしても、こうしたことは許すべからざることである。

そういう德川一門それも御三家たる水戸藩に尊皇思想が生まれ、継承され、やがて明治維新の基本思想となったことは不思議な事実である。もっとも、水戸藩に限らず、尾張藩の尊皇の伝統を継承しているし、幕閣の中にも徳川綱吉や松平定信など尊皇精神の篤い人もいた。

ともかく、水戸学が明治維新の大きな原動力の一つであったことは確かである。その水戸藩が幕末において凄惨な内部紛争が起こり、維新後の新体制に参画できなかったことは悲劇であった。

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