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2012年5月 8日 (火)

『国家』について

かなり前から「國民」という言葉を使わず「市民」という言葉がよく使われるようになった。「市民」という言葉の根底には、國家と國民とが対立する関係にあるという思想がある。そういう思想を抱いている人は、「國民」という言葉は読んで字の如く「國の民」という意味であり國家の束縛を受けるように感じられるから使いたくないのであろう。

國家の束縛を嫌い、國家と國民とは対立すると考えている人の言う「國家」とは權力機構・支配機構のことである。國家の中には階級対立があり、國家主權と國民の人權及び自由とは矛盾し合い、國家權力と國民とは対立し戦わねばならないとする。そしてできるだけ國家權力は制限すべきであるとする。

こうした國家觀の延長線上に、マルクス・レーニン主義・共産主義の國家觀がある。共産主義者は、「權力國家」はいずれ死滅し、やがて自由で平等な理想社会を作るなどと主張した。しかし、現実には、かつてのソ連や現在の共産中國を見ても分かるように、共産主義者が國家權力を掌握した國家ほど國家權力が不断に増大し強大になり、國民の權利を蹂躙し自由を束縛している。それどころか、旧ソ連でも共産中國でも何千万という人々が共産党國家權力によって殺戮された。

人民の權利を主張し國家を敵視する共産主義思想が、かえって國家權力の暴虐を招いたのである。さらに面白いことにもソ連という専制国家が消滅した後、同じ地域に数多くの国家が出現した。国歌は死滅するなどというは空想なのだ。歴史の皮肉というほかはない。なぜそういうことになったのか。それは西洋的な國家觀・國民觀に誤りがあるからである。とりわけ、國家を國民と対立する權力機構としてとらえ、國家が死滅することによって人間の自由・平等・幸福が実現するなどという思想は空理空論であり、根本的に誤っている。

人間は、よほど特殊の場合を除いて、たった一人では生きるなどということはあり得ないし、不可能である。人間は、多くの人々が助け合い、いたわり合ってこそ生きて行ける。つまり人は、人間関係の中にあってこそ、人として生きて行けるのである。

多くの人々が助け合って生きている場を共同體という。そうした有機的生命體としての共同體が成長発展したものが國家である。國家があってこそ人間は生きて行けるのである。人間がこの世に生きている以上共同體國家はなくてはならない存在である。

個人の自由や幸福はできるだけ実現されなければならないが、人間は、道義を重んじ、他者を愛しいたわり、他者と協力する心があると共に、道義を忘れ、他者を憎み迫害し、他者と競争する心があるので、しばしば他人の自由や幸福と衝突する。その場合各自の自由や權利そして幸福の追求を調整しなければならない。その役目を果たすのが國家なのである。

 

國家は、國民の道義心を基本として、國民同士の愛と信頼と協力を促進せしめる役割を果たすと共に、國民の道義心の忘却による、憎悪と不信と闘争を抑止する役割を担う。個の尊重とか人間の權利とか自由というものも、共同體國家の中においてこそ守られるのである。

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