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2012年4月15日 (日)

日本国家について

国家を否定し、国旗日の丸や国歌君が代も認めず、愛国心を嫌う人々は、「国家」を権力機構としてのみとらえているのである。権力機構としての国家を否定することは或いは可能かもしれない。例えば「腐敗堕落して政治家や官僚や財界人が好き勝手なことをしているから国に税金なんか納めない」と主張し、それを実行することは可能である。(勿論それによって権力機構から制裁を加えられるだろうが…)しかし、自分が今「父祖の国」「母国」としての国家に生まれ育ち生きている事実は否定できない。

三島由紀夫氏は「私は(国家には・註)統治的国家と祭祀的国家とあると考えて、近代政治学の考えるネーション(国家と訳されている・注)というのは統治的国家だけれども、この統治的国家のために死ぬということは、僕はむずかしいと思う…もう一つネーションというものは祭祀的な国家というものが本源的にあって、これは管理機能あるいは統治機能と全然関係がないものだ。ここにネーションというものの根拠を求めなければ、私は将来守ることはできないのだという考えを持っている。…ラショナル(合理的・注)な機能を統治国家が代表して、イラショナル(非合理的・注)なイロジカル(非論理的・注)機能をこの祭祀国家が代表している。…この二つのイロジカルな国家とロジカルな国家が表裏一体になることがぼくの考えるいい国家なんです」(村上一郎氏との対談『尚武の心と憤怒の抒情』)と語っている。

  

我々の愛する国家とは権力機構としての国家ではない。否定しても否定し切れないところの国である。海という大自然をめぐらし、緑濃き山と清らかな河とを有する国、農耕を営み、優れた文化感覚を持つ国「日本」である。

この麗しき国日本は、村落共同体から出発して、次第にその範囲を広め、日本という国家を形成した。その本質は、地縁・血縁によって結ばれただけでなく、稲作生活から生まれた祭祀を基本とする伝統信仰によって結合している共同体である。その信仰共同体の祭り主が天皇(すめらみこと)なのである。故に日本という国とはいかなる国であるかと問われれば、「天皇中心の信仰共同体である」と答えるのが正しいのである。

 我々日本人が理想とする国家とは、麗しい天皇中心の信仰共同体とこれを統治する政治機構が包含され一体となったものなのである。

 

国家が暴力装置であり支配と被支配との関係の機関的存在であるとして扱われ、国家に対する愛が薄れ共同体意識が無くなりつつある現代においてこのことを正しく認識することは非常に重要であり最大の課題であると言える。

日本という国家は、人の魂が結び合って生まれてきた生命体なのである。日本民族の農耕を中心とする伝統的生活のから培われた信仰(自然信仰と祖霊崇拝・自然と祖霊を神として拝む心)が根幹となって生まれてきた生命体が日本国なのである。そしてその〈むすび〉の中核が日本伝統信仰の祭祀主である天皇である。これが三島由紀夫氏の言う「祭祀的国家」としての日本なのである。

我々はまず以て「国家観」を正しく確立しなければならない。言うまでもなく日本と欧米とは歴史・文化・宗教・社会構造・人間関係を異にしているのだから、日本国を近代西欧流の国家法人説・国家暴力装置説などの「国家観」によって論じてはならない。 

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