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2012年3月 9日 (金)

王明理台湾独立建国聯盟日本本部委員長の講演記録

七日に行われた『台湾研究フォーラム』における登壇者の発言は次の通り。

永山英樹会長「文科省の検定が、教科書の地図で台湾を中国領にしている。中国への配慮。中国を喜ばせる。台湾併呑のために日本の世論を誘導している。教科書は三百万人の子供たちが使う。台湾は中国の一部という事に違和感を持たなくなるのは困ったこと。台湾による東日本大地震の被災地支援に日本人は感謝している。国民党政権になったから、民放やNHKが台湾を取り上げることに中国は反対しない。国民党政権は、台湾は中国の一部と言っている。中共は国民党を操っている。」

王明理台湾独立建国聯盟日本本部委員長「一九五五年、国民党政権に対するシャドーキャビネットとして台湾共和国臨時政府樹立。父も誘われて集会に行った。大統領・閣僚・国会議員はいたが、具体的活動無し。砂上の楼閣。在日台湾人・台湾留学生に人気無し。父は参加を見送った。父は密入国して東大に再入学していた。保証人の倉石武四郎氏から『卒業するまでは政治運動はするな』と言われていた。一九六五年、台湾共和国臨時政府の廖文毅大統領は国民党政権に投降した。国民党政権は台湾独立運動の壊滅を宣伝。台湾独立運動は信用を無くしマイナスエネルギーが働いた。しかし、臨時政府のようなやり方はしないという反面教師になった。

(注・王育徳氏)は自宅を事務所にして台湾独立運動を始めた。一九六〇年、父は、黄昭堂先生などと共に台湾青年社を結成した。『中華民国体制打倒・台湾人による民主国家建設』を目標にした。『台湾青年』発行が一番の活動。台湾独立のコンセンサス作り、留学生に台湾人意識そして日本人に台湾独立を理解させるのが目的。二間しかなかった家の奥が父の書斎兼寝室。『台湾青年』の発送が終わらないとご飯も食べられなかった。父は楽しそうだった。資金が大変だった。父は明治大学の非常勤講師だった。父は一人で募金に歩いた。横浜・新宿・池袋の台僑の人々のところを回った。十中八九は断られた。父は『啓蒙活動になる』と言っていた。

当時はパソコン・FAXもなかった。電話もなかった。効率が悪かった。原稿は日本語で書いていた。父が校正をした。ちゃんとした日本語で書くのは大変だった。許世楷・黄昭堂・周英明氏などは、日本語で博士論文を書いた。そして大学教授になった。台湾人・朝鮮人・中国人がたどたどしい日本語を使うと日本人にバカにされる。また、台湾に帰ることが出来ない。日本に腰を据えて生きるために日本語を身に着けようとした。

『台湾青年』は第十号から隔月刊から月刊になった。宗像隆幸さんが編集部に入った。その後四十二年間携わって下さった。一九九六年に中文版も発行。アメリカにいる台湾人留学生にも読ませた。アメリカでの台独運動に火が付いた。留学生名簿・台僑名簿で手当たり次第に『台湾青年』を送った。『台湾青年』を購読していると『反乱罪』になるので怖がる人がいた。中華民国駐日大使館にわざわざ持って行って『私は関係ない』と言った人もいる。秘密聯盟員も増えた。

一九六三年に台湾青年社を台湾青年会と改称し、中央委員会を設置。黄昭堂氏が委員長に就任。事務所も父の家から外に構えた。宗像隆幸氏が管理した。六四年から五年間、父は第一線から退いた。父は、日本社会にもっと理解を得てから実際運動をしようと考えていた。過激な運動は望まなかった。世代間の違い。組織が大きくなった。しかし発展の中で足元をすくわれる出来事があった。一九六四年、父は『台湾―苦悶するその歴史』を出版した。歴史学・民族学・地理学から書いた。この本は独立運動の拠り所となった。台湾語の研究により博士論文が完成し、博士号を取った。台湾語は中国語とは違うという事を主張。

一九六四年に『陳純真スパイ事件』が起こり、黄昭堂氏など七名が逮捕された。スパイであることを白状させた時、軽いけがをさせた。それを陳純真が警察に訴えた。六七年、連盟幹部の林啓旭・張栄魁両氏が強制退去令で入管に収容され、ハンガーストライキを行った。宮崎繁樹明治大学教授が『張・林両君を守る会』を結成、街頭演説などを行った。大宅壮一氏などが賛同した。東京地裁が強制退去の執行停止を命令した。一九六八年に、入管の仕返しで『柳文卿強制送還事件』が起こった。黄昭堂氏など十人が羽田空港で逮捕された。柳文卿は送還されたが、国際世論の喚起により、極刑を免れ監視軟禁下に置かれた。この後、台湾からの日本への留学生が少なくなった。黄昭堂氏は昨年最後にお会いした時、私に『柳文卿強制送還の時、台湾に送還すれば死刑になると分かっていて送還させた日本政府のやり方は、私たち台湾人の心の傷になっている』と語った。

一九七〇年一月一日、台湾青年独立聯盟は結成十年にして世界組織となり、台湾独立聯盟が成立した。アメリカに本部が置かれた。七〇年一月三日、日本本部の宗像隆幸氏の救出作戦により、彭明敏博士が台湾を脱出した。七〇年五月、日本本部の小林正成氏が、台北市で台湾民主化を訴えるビラをまき逮捕され、警備総司令部に四か月間収監された。釈放の際、獄中の政治犯からのメッセージを聯盟に持ち帰った。これにより数名の政治犯の命が救われた。小林氏は台湾人の命の恩人。

一九七三年、政治色のない台湾人団体を作る目的で、台湾同郷会を設立した。裏方は独立聯盟の人たちだった。一九七五年『台湾人元日本兵の補償問題を考える会』(代表=宮崎繁樹氏。事務局長=王育徳氏)結成。この前年に台湾人元日本兵・中村輝夫さんがインドネシア・モロタイ島で発見された。三十年間ジャングルで戦った。中村輝夫さんは、三十年間、身を清めて毎朝皇居に拝礼した。畑を耕して芋を作り食料にした。銃を毎日手入れしていて使える状態だった。それなのに日本政府から六万円支払われただけで台湾に返され、お払い箱にされたことに父は唖然とし憤った。中村さんの背後に二十万人の台湾兵の悲哀があった。戦死者は三万、戦傷者はそれ以上。日本からも国民党政権からも相手にされない。補償されない。台湾社会では片隅に追いやられていた。補償を日本政府に訴えた。恩給法・障害保険に国籍条項の壁があり、日本人ではないということで一切の補償なし。台湾と外交関係がないという壁もあった。父は、台湾人の人権のために戦うのだから台湾独立運動の一環と考えた。しかし、国民党の妨害を考えて黒子に徹した。聯盟本部でプラカード作り、署名板作りなどを行った。この運動は成功した。父が走り回って議員懇談会を作った。マスコミが取り上げた。一九八七年に有馬元治(父の台北高校の先輩)・永末英一氏など十五名が議員立法をおこなった。弔慰金が一人二百万円支払われた。

一九八六年、米国議員が『台湾民主化促進委員会』を作った。台湾民衆には国民党の洗脳を受けている人が多かった。私は去年九月に聯盟の日本本部委員長になった。聯盟の人は自分の信念に忠実。そういう人がいたから日本人の理解者が増えた。台湾が本当の独立国家にならなければも亡くなった人たちの魂は救われない。」

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