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2012年2月18日 (土)

ヘンリー・スコット・ストークス氏の三島由紀夫論

二月十三日に行われた『三島由紀夫研究会公開講座』におけるジャーナリストのヘンリー・スコット・ストークス氏が講演内容は次の通り。

「一九六四年にジャーナリストとして来日し三島由紀夫氏に出会った。当時はベトナム戦争があり、全学連のデモもあった。今日では想像もできない状況。三島氏の当時の世情と違うところに魅かれた。三島氏はジャーナリストとしてある意味で接しやすい人だった。三島氏はベトナム戦争にまったく興味を持っていなかった。日本の魂に触れるためには作家に会う事が大切だと思った。

ビッグな小説家にインタビューする中で、日本は分岐点にさしかかっていると思った。三島由紀夫氏を除いては日本がどっちの方向へ行けばいいのか分からない状態だった。三島氏はその為に自分自身を犠牲にすることを辞さなかった。中曽根さんを右翼だと言う人がいるが、中曽根さんは右翼でもなんでもない。国のために指の先一つも犠牲にすることはなかった。三島氏の死の十日後、外国人記者クラブに来て中曽根は、『三島は自決しなければよかった』と言った。

三島氏の幼少の頃を知れば知るほど、祖母の影響が強かったことが分かった。常陸宍戸藩藩主の松平家の血をひく祖母の厳しい躾を受けた。三つ子の魂百までで、三島氏は礼儀正しかった。

自由が丘のお祭りで御神輿を担いだ時の三島氏は人生を楽しんでいた。一緒にいて楽しい人だった。自分の人生を計画し実行するという意味で、三島氏は物凄い精神力であった。三島氏はお母さんを安心させたいために結婚した。

『金閣寺』と『宴のあと』は特に素晴らしい。三島氏はどういう人だったかが理解されるのは二、三百年かかる。自決の日、市ヶ谷に向かう途中、学習院の前を通り過ぎた。『私の息子は今あそこにいる』と楯の会の四人に言った。最後の数か月間はそれまでと違った精神状態であった。『関の孫六』はどこにあるのか分からない。三島氏は、『天皇は神である』というお立場を失ってはならないと思っていた。これが三島事件の全てであった。『昭和二十一年元旦の詔書』の宣言について非常に心を痛めていた。自決の根本で三島氏が訴えたかったのは、天皇の神聖性を失ってはいけないということ。自衛隊は何のために戦うのかを訴えたかった。三島氏は、この国がある種の呪いの中にあると考えていた。

私は森田必勝さんとはごく限られた接点しかない。古賀浩靖さんがどうしているか知りたい。」と語った。

       ○

昭和天皇は、『昭和二十一年元旦の詔書』を発せられた後も、「現御神」「天照大御神の生みの御子」との御自覚は決して失ってはおられなかった。「天皇の神聖性」は絶対に失われてはいない。

昭和天皇は、昭和三十五年に、

さしのぼる 朝日の光り へだてなく 世を照らさ むぞ わがねがひなる

と歌われ、同三十四年には

あなうれし 神のみ前に 日の御子の いもせの契 り 結ぶこの朝

と詠ませられている。この二首の御製は天皇および皇太子は「天照大神の生みの御子」即ち「日の御子」であるという御自覚を歌われているのである。

これらの御製を拝すれば、昭和天皇が「昭和二十一年元旦の詔書」においていわゆる「神格」を否定され「人間宣言」をされたなどという説が大きな誤りであることが分かる。

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