« 千駄木庵日乗二月六日 | トップページ | 千駄木庵日乗二月七日 »

2012年2月 7日 (火)

國體と成文法

祭祀主たる天皇は、地上における天照大御神の御代理即ち現御神であらせられるのであって、國民が作った成文法によって制限され、規制される存在ではない。

伊藤博文は、明治十五年の書いたといふ岩倉具視宛の書簡で、「…我皇室の如きは、二千五百有余年、邦国の体裁を固定せざる以前に於て、既に君主の地位を占む。豈に国憲を定め国会を起すの時に至り、始めて君主たる事を認めらるゝを俣たんや。」(『伊藤博文傳』中巻)と書いてゐる。

 政体が制度的・法的に確立した時期よりはるか以前から、すなはち天孫降臨以来、天皇はわが國に君臨せられてゐたのである。

 野口武彦氏は、「美濃部達吉は『帝国の國體と帝国憲法』(大正二年)といふ著書で、『國體』とは『国家の成立する基礎たる精神』、『国家団結の基づく所の民族精神』であり、従って『単純なる法律上の観念に非ず』といい、さらに『國體は憲法上の観念に非ずして主としては倫理上の観念なり。憲法は国の政治組織を定むと雖も國體を定むることなし』と明言してゐる。そして『政体』の概念については、『我が帝国の國體に基く憲法上の特色は萬世一系の皇統を君主として奉戴する君主政体なることに存す』とい命題が明確に述べているとおり、これを国家の政治組織と定義しているのである。」(『王道と革命の間』)と述べてゐる。

國體と政体は明確に区別されなければならない。そして成文法によって國體が隠蔽されたり変革されたりしてはならない。 

また、西洋の国家観は、ある特定の地域の内部で物理的暴力による支配機構といふ事である。国家は個人の抑圧装置としてゐる。西洋国家観では、個人にとって国家とは本質的に敵である。このやうな国家観で日本国を規定してはならない。

|

« 千駄木庵日乗二月六日 | トップページ | 千駄木庵日乗二月七日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/53922589

この記事へのトラックバック一覧です: 國體と成文法:

« 千駄木庵日乗二月六日 | トップページ | 千駄木庵日乗二月七日 »