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2011年10月22日 (土)

竹内泰存師の『宮沢賢治と立正安国論』と題する講演・その二

当時は念仏の信者が多く、『法華経』の信者は少なかった。日蓮大聖人は十七歳で出家され、十二年間、比叡山などで勉学された。日蓮大聖人は、比叡山からお戻りになる時、伊勢間の山常明寺で、百日間、沐浴参篭し、伊勢神宮に参拝された。そして『我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん』という『三大誓願』をお立てになった。日蓮大聖人は、天照大神を国祖として崇めた。

私は昭和二十五年に立正大学に入学。当時は袈裟を着て大学帽をかぶって通学した。五反田駅辺りで良く創価学会員に折伏された。『大石寺には血脈があり、相承があり、大御本尊がある。身延には無い。学会に入らないと、一週間以内に火事になり怪我をする』と言われた。私は『今言った事を紙に書いてハンコを押せ』と言い返した。

日蓮大聖人は、清澄寺に帰られ、建長五年四月二十八日に御年三十二歳で、清澄山旭が森の岩頭に立たれ、遥か大平洋上を暗闇を破り、凛々として上りくる大日輪に向かい、南無妙法蓮華経と大音声にお題目を唱えて、法華経の広宣流布を宣言なされた。その後度々法難を遭われた。佐渡に四年間流罪になった。

鳥と虫とはなけども涙落ちず。日蓮は泣かねども涙ひまなし。此の涙 世間の事には非ず。ただひとえに法華経の故なり(『諸法実相鈔』)と書かれた。そして六十一年の生涯を終えられた。それから今年で七百三十年である。

宮沢賢治は明治二十九年月二十七日に花巻で生まれた。賢治が生まれる約二ヶ月前の六月一五日に『三陸地震津波』が発生し誕生から五日目の八月三一日には秋田県東部を震源とする『陸羽地震』が発生した。疫病もはやった。お百姓さんたちの苦労を知りつくしていたので、何とか農民を助けようと賢治は考えた。

宮沢賢治は、その遺言に『妙法蓮華経全品一千部を刷って知己の方にお送り下さい。その経本の最後のところに『私の全生涯の仕事はこの経典をあなたにお届けして、あなたがこの中にある仏意にふれて無上道に入られんことをお願いするの外ありません』と書いていただきとう存じます」と書いた。『法華経』の『如来寿量品第十六』の結句『得入無上道 速成就佛身』と同じ念願を書き遺して、三十八年の生涯を終えた。

『雨ニモマケズ』の『アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ』という心が大事。『終戦の大詔』の『宜しく挙国一家子孫相伝え、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏くし、誓て國體の精華を発揚し、世界の進運に後れざらむことを期すべし。』との大御心に随順し、『教育勅語』の御精神を体していかなければならない。」

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