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2011年9月30日 (金)

中河与一先生とレオナール・フジタ

今日参観した『レオナール・フジタ 私のパリ、私のアトリエ』展は、「少女や裸婦、猫を描いた画家として親しまれているレオナール・フジタ(藤田嗣治、1886-1968)は、およそ60年にわたる長い画業のなかで、自画像をはじめとする肖像画や室内画、静物画、子どもを主題とした作品などにも積極的に取り組みました。…本展覧会では、当館のコレクションを中心に、フジタの画業をはじめとする、彼の多彩な創作活動の一端をご紹介いたします。フジタが画家として名声を得、その後の活動の拠点となった芸術の都パリ、そして彼の制作と生活の場であったアトリエに焦点をあてながら、それらが彼の多様な活動にどのような影響を与えたのか、そして彼の芸術がいかに形成されたかを探ります。」(案内書)との趣旨で開催された。

自画像・タピスリーの裸婦・植物の中の裸婦・室内・姉妹・オランダの子供たち・ラ・フォンテーヌ頌・誕生日などのフジタの作品、そして、ピカソ・モディリアー二・ローランサンなどフジタと交流のあった画家の作品が展示されていた。

私はレオナール・フジタの作品が好きである。乳白色が用いられた何か不思議な感じのする絵である。見ていて美しいなあという思いがする。絵画というものは美しくなければいけない。

何故私がレオナール・フジタに関心を持つようになったかと言うと、フジタが私の文芸上の恩師である中河与一先生と深い親交があったからである。中河先生の家の応接間には、フジタが描いた『嬉子像』という中河先生の三女の方の肖像画が飾られていた。そしてその隣には、佐伯祐三が描いた『恐ろしき顔』と題した中河先生の肖像画も掲げられていた。

フジタも佐伯も近代日本における洋画家の最高峰である。二人とも日本国内のみならず、欧米において高い評価を得ている。中河先生のこの二人と若いころから親交があったのである。中河先生自身、画家を志して岡田三郎助の指導を受けたこともある。

中河先生とフジタは戦後、同じような運命を背負った。二人とも「戦争協力者」とされ、作家や画家や評論家たちから非難攻撃を受け文壇及び画壇から追放されたのである。中河もフジタも祖国の危機に際して、粉骨砕身その芸術家としての立場から、大東亜戦争に協力した。敗戦後、文壇・画壇において、「戦争協力者」「戦争犯罪人」の追及が起こった。戦争への反省と言うよりも、画家や作家たちの戦勝国へのおもねり、時局便乗、自己保身のために行われたという側面もある。そのターゲットにされたのが、文壇では中河与一先生であり、画壇ではレオナール・フジタ(藤田嗣治)だった。

戦後、フジタはフランスに渡り、彼の地で創作活動を続けた。中河与一はパリに藤田を訪ねたこともあった。フジタはパリで子供たちを主題とした作品を多く描いた。今日の展覧会にも、子供たちを描いた作品が数多く展示されていた。それこそ何百人と言う子供たちが描かれていたが、笑顔の子供は一人もいなかった。フジタが孤独であったことを感じさせる。

中河与一の父君は医師であり、フジタの父君も医師である。フジタの父が陸軍軍医総監であったことは今日初めて知った。中河先生の山荘のあった箱根でフジタの展覧会が開かれたのも、何かの因縁を感じさせる。

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ポーラ美術館

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