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2011年9月30日 (金)

中河与一先生とレオナール・フジタ

今日参観した『レオナール・フジタ 私のパリ、私のアトリエ』展は、「少女や裸婦、猫を描いた画家として親しまれているレオナール・フジタ(藤田嗣治、1886-1968)は、およそ60年にわたる長い画業のなかで、自画像をはじめとする肖像画や室内画、静物画、子どもを主題とした作品などにも積極的に取り組みました。…本展覧会では、当館のコレクションを中心に、フジタの画業をはじめとする、彼の多彩な創作活動の一端をご紹介いたします。フジタが画家として名声を得、その後の活動の拠点となった芸術の都パリ、そして彼の制作と生活の場であったアトリエに焦点をあてながら、それらが彼の多様な活動にどのような影響を与えたのか、そして彼の芸術がいかに形成されたかを探ります。」(案内書)との趣旨で開催された。

自画像・タピスリーの裸婦・植物の中の裸婦・室内・姉妹・オランダの子供たち・ラ・フォンテーヌ頌・誕生日などのフジタの作品、そして、ピカソ・モディリアー二・ローランサンなどフジタと交流のあった画家の作品が展示されていた。

私はレオナール・フジタの作品が好きである。乳白色が用いられた何か不思議な感じのする絵である。見ていて美しいなあという思いがする。絵画というものは美しくなければいけない。

何故私がレオナール・フジタに関心を持つようになったかと言うと、フジタが私の文芸上の恩師である中河与一先生と深い親交があったからである。中河先生の家の応接間には、フジタが描いた『嬉子像』という中河先生の三女の方の肖像画が飾られていた。そしてその隣には、佐伯祐三が描いた『恐ろしき顔』と題した中河先生の肖像画も掲げられていた。

フジタも佐伯も近代日本における洋画家の最高峰である。二人とも日本国内のみならず、欧米において高い評価を得ている。中河先生のこの二人と若いころから親交があったのである。中河先生自身、画家を志して岡田三郎助の指導を受けたこともある。

中河先生とフジタは戦後、同じような運命を背負った。二人とも「戦争協力者」とされ、作家や画家や評論家たちから非難攻撃を受け文壇及び画壇から追放されたのである。中河もフジタも祖国の危機に際して、粉骨砕身その芸術家としての立場から、大東亜戦争に協力した。敗戦後、文壇・画壇において、「戦争協力者」「戦争犯罪人」の追及が起こった。戦争への反省と言うよりも、画家や作家たちの戦勝国へのおもねり、時局便乗、自己保身のために行われたという側面もある。そのターゲットにされたのが、文壇では中河与一先生であり、画壇ではレオナール・フジタ(藤田嗣治)だった。

戦後、フジタはフランスに渡り、彼の地で創作活動を続けた。中河与一はパリに藤田を訪ねたこともあった。フジタはパリで子供たちを主題とした作品を多く描いた。今日の展覧会にも、子供たちを描いた作品が数多く展示されていた。それこそ何百人と言う子供たちが描かれていたが、笑顔の子供は一人もいなかった。フジタが孤独であったことを感じさせる。

中河与一の父君は医師であり、フジタの父君も医師である。フジタの父が陸軍軍医総監であったことは今日初めて知った。中河先生の山荘のあった箱根でフジタの展覧会が開かれたのも、何かの因縁を感じさせる。

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ポーラ美術館

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千駄木庵日乗九月二十九日

朝、宿舎を出発。箱根登山鉄道で強羅へ。強羅よりバスでポーラ美術館へ。

仙石原のポーラ美術館にて開催中の『レオナール・フジタ 私のパリ、私のアトリエ』展参観。

バスで、強羅に戻り、登山鉄道で箱根湯本へ。小田急線で新宿へ。

病院に赴き、父に付き添う。

帰宅後は、諸雑務。

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2011年9月29日 (木)

千駄木庵日乗九月二十八日

午前は、母のお世話。

午後、小田急線で箱根へ。

午後六時より、箱根湯本にて、『日本を糺す会』開催。杉山清一氏が司会。荒井清壽弁護士が主催者挨拶。藤元正義・蜷川正大の各氏らがスピーチ。小生が、赤穂浪士討ち入り・山鹿流儀の陣太鼓・俵星玄蕃について熱弁。この後、深夜まで各分科会に分かれて討議。

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2011年9月28日 (水)

中井洽が予算委員長まだ続けていることについて

昨日・今日と衆議院予算委員会が開かれている。そして委員長は相変わらず中井洽である。中井洽は、昨年十一月二十九日に、天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、参議院本會議場で行われた「議會開設百二十年記念式典」において、天皇、皇后両陛下のご来臨を起立して待っておられた秋篠宮同妃両殿下に対し奉り「早く座れよ。こっちも座れないじゃないか」と野次を飛ばした。


しかも中井は、天皇陛下が御入場になり、御着席されるや否や早々に着席した。その時、皇后陛下も秋篠宮同妃両殿下も御起立されたままであった。貴下は、皇后陛下が未だ御着席になっていないのを見て、再び立ち上がった。

皇室に対し奉り、尊崇の念を全く欠いているばかりでなく、まさに不敬の所業である。こういう人物が、衆議院議員を続けていること自体がおかしいのに、予算委員長を務めているのは断じて許されない。

天皇陛下・秋篠宮殿下に不敬をはたらいた中井洽が予算委員長をしているのは断じて許し難い。中井自身及び民主党がおかしいのは言うまでもないが、自民党が真に保守政党なら、中井予算委員長を忌避すべきだ。

こうしたことは、いかに日本の政治家と称する者共の質が低下しているかを証明するものである。否、質の低下などという言葉で片付けられない。日本國の君主であらせられる天皇陛下に対する尊崇の念・かしこみの心・皇室を敬う心が希薄なのだ。否、ないと言った方がいい。

尊皇精神・勤皇精神が希薄になればなるほど、日本國民の道義心・倫理感が希薄になる。なぜなら、天皇は、日本國民の道義感・倫理感の鏡であるからである。皇室への尊崇の念の希薄化と今日の日本國民の道義心の低下とは相関関係にあると考える。日本はまさに危機的状態に陥っている。日本民族が尊皇精神を喪失した時、日本國は崩壊の危機に瀕する。

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千駄木庵日乗九月二十七日

午前は、母のお世話。

昼は、知人と懇談。

午後は、原稿執筆。

この後、病院に赴き、父に付き添う。

帰宅後も、原稿執筆。萬葉歌人・高市黒人の歌について書きました。

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2011年9月27日 (火)

小沢一郎の元秘書有罪判決に思う

民主党の小沢一郎元代表の資金管理団体「陸山会」を巡る政治資金規正法違反事件で、石川知裕衆院議員ら元秘書3人が有罪判決を受けた。

国会議員の秘書や元秘書が刑事責任を問われた近年の例では、有罪判決が出る前に議員本人が離党や議員辞職をした。

自民党の加藤紘一元幹事長、同じく自民党の井上裕元参院議長は、秘書が逮捕された時点で、議員を辞職している。しかるに小沢は、恬として恥じずに、今日も衆院議員を続けている。小沢がまともに政治家なら。即刻議員を辞職すべきであろう。しかし、彼は辞職などしないであろう。

かつて鳩山由紀夫は小沢のことを「百年に一度出るかでないかの政治家」と評価した。鳩山自身は「百年に一度出るかでないかの愚かなる総理」であったが、私は、小沢一郎は「百年に一度出るかでないかの極悪政治家」だと思っている。秘書が逮捕されようと、有罪判決を受けようと議員を辞職しないからそう思ったのではない。皇室・歴史問題などに関する彼の考え方・姿勢を見てそう思うのである。

「天皇陛下に対し奉る露骨なる政治利用の正当化」「天皇陛下の直属の臣であり認証官である宮内庁長官への口汚い恫喝と罵倒」「韓国において騎馬民族征服説を吹聴するという売国行為」「天皇御陵の発掘容認発言」などは、断じて許し難い。少なくとも、明治以後の政治家、とりわけ政権与党の権力者でこれほど皇室を蔑ろにした人はいなかった。

今までも、売国政治家・国賊と批難された政治家が何人かいる。しかし、小沢一郎ほど悪質な国賊政治家は、まさに百年に一度出るかでないかである。

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千駄木庵日乗九月二十六日

午前は、母のお世話。

午後は、資料の整理。

午後六時より、赤坂のANAインターコンチネンタルホテル東京という恐ろしく長い名前のホテルで、『平沢勝栄政経文化セミナー』開催。甘利明・石原伸晃・三宅久之・城内実・加藤紘一・小林節の各氏などが挨拶。平沢勝栄氏がスピーチ。金田正一氏の音頭で乾杯を行った。小学生時代の同級生のご主人とお会いした。今、衆議院議員をされている。その小学生時代の同級生の父上が、父の旧制中学の先輩。会場には多くの知人・友人・同志が来ていた。小生にもご招待をいただいたので出席させていただいた。以前「朝まで生テレビ」で平沢氏とご一緒したからであろう。

帰途、友人同志数人と懇談。

帰宅後も、資料の整理。

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平沢勝栄政経文化セミナー

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2011年9月26日 (月)

多田恵亜細亜大学講師の台湾問題に関する講演

九月二十四日に行われた『第十六回日本の心を学ぶ会』における多田恵亜細亜大学講師の講演は次の通り、

「台湾を通じて支那の事が分かる。僕自身、台湾語の研究をしている中で、『民族』とは、『中国』とは、『日本とは』何かということを考えさせられた。

台湾は一八九五年から四五年まで日本の領土だった。法的には、『サンフランシスコ講和条約』発効まで日本領。しかし日本は占領下にあり主権を行使できなかった。『講和条約』で日本は台湾を放棄したことになった。しかし、中華民国に渡すとは言っていない。何故、中華民国と名乗る政府が台湾にいるのかが問題。

二・二八事件が勃発したが、日本ではあまり紹介されなかった。民主化までは台湾社会の中でもあまり語られにくい状態だった。一九四九年、蒋介石は支那から追い出された。それまで日本風の秩序が作り上げられていたのに、戦後蒋介石によってずたずたにされた。治安が悪くなった。家の窓に鉄格子が付けられるようになった。台湾人は、中華民国軍が台湾に来た時に歓迎した。日本時代、日本人が台湾人を蔑視し不公平に扱いをしたことに反発していた台湾人もいた。

中国国民党の資金は日本の資産を接収したもの。しかも台湾の秩序を破壊した。だから日本人より中国人の方が悪いとして立ち上がったのが二・二八事件。大陸から援軍が来て弾圧された。日本的思想を持っていたエリートばかり三万人の人たちが殺された。台湾人は凶暴な支那人に長い間押さえつけられた。

中国には信頼できる社会はない。支那人は政府を信用しない。人間関係の在り方が、日本と中国では違う。台湾人は自分たちが支那人ではないことが分かった。

民族にとって記憶と歴史と文化が大事。共産主義社会は記憶を変えることをしている。自分が台湾人と思っている人たちは、支那人を信用しない。国民党のやり方はソ連共産党と同じ。国民党に入っていないと昇進できない。洗脳を受けた。国民党に反感を持つようになる歴史を教えない。学校には、陳水扁の肖像は架けられなかった。李登輝総統時代の事は学校では教えない。

東日本大震災の義捐金は、馬英九政権が集めたのではない。馬英九は義捐金集めを止めたかったが、止められなかった。

台湾には、日本人と一緒に社会を建設した人々の子孫と、戦後台湾を強圧的に支配した人々の子孫がいる。

来年一月に総統選挙がある。選挙の一週間後が旧暦の正月。地方の人に野党支持者が多い。多くの人々が地方から台北に働きに来ている。旧暦の正月にみんな帰郷する。その一週間後にまた帰郷して選挙に参加するだろうか。あくどいやり方。国会議員の選挙を総統選と同じ日にやる。買収がしやすい」。

         ○

台湾が、「中華人民共和国台湾省」になることは何としても食い止めねばならない。そのためには、日本が共産支那に対して毅然とした姿勢で臨まねばならない。そして台湾の強力な同盟国でなければならない。しかるに、わが国は、自民党政権時代から、共産支那に軟弱姿勢を取り続け、台湾に対して強力なる支援を行っていない。

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千駄木庵日乗九月二十五日

午前は、母のお世話。

午後一時より、グラントヒル市ヶ谷にて、『日本学協会定例講演会』開催。志方俊之帝京大学教授が、「大丈夫か、わが国の危機管理」と題して講演。質疑応答。

この後、病院に赴き、父に付き添う。やや体調が良いようで、少し話す。私に気を使ってくれる。有り難し。

帰宅後は、原稿執筆の準備。

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日本学協会定例講演会

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2011年9月25日 (日)

天皇と軍について

戦後日本は誤った<平和主義>に侵されて、軍事・防衛を忌避し自衛隊を日陰者扱いにしてきた。そして、天皇及びご皇室は軍(自衛隊)から引き離され、天皇が自衛隊を親閲されることがない状況が続いている。

           

宗教・芸術文化・政治・経済などわが國のあらゆることが、天皇によってその倫理性・道義性が保たれるのであるから、軍事もその例外であるはずがない。軍の政治的中立・生命を懸けて國を護ろうとする精神と行動の精神的源泉は、天皇への帰一の心である。戊辰戦争・西南戦争・日清戦争・日露戦争におけるわが國軍人の士気の高さと道義心の篤さは、尊皇精神にあった。

天皇と「軍」・「武」の精神とを切り離すことは誤りである。天皇が、祭祀・政治・軍事・生産を精神的に司られるのが本来のあり方である。古代日本においては、天皇直属の全國の民衆を兵士とする全國民的な体制であった。「防人」がそれである。わが國における公・おおやけとは天皇の御事である。天皇直属ではない兵は私兵である。

天皇が政治及び軍事を精神的に司られることによって、わが國の政治と軍事の道義性が保たれるのである。今日の日本はそういう國體の真姿が隠蔽されているのである。だから、政治は混迷し、正しい国防体制が確立されないのである。再び言う。軍が命を懸けて國を護ろうとする精神と行動のそして道義性の源泉は、天皇への帰一の心である。

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最近受贈した書籍

最近受贈した書籍

茯苓(二松学舎大学卒業生回想録) 茯苓編集委員会編 二松学舎松苓会発行 発行所より

哲人政治家李登輝の原点 黄文雄著 WAC発行 著者より

ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたのか 加瀬英明著 詳伝社発行 著者より

幽真界研究 勅使河原大鳳著 山雅房発行 橘秀綱氏より

国魂神の冥護 勅使河原大鳳著 山雅房発行 橘秀綱氏より

東日本大震災後の新しい人間の生き方と魂の絆 水口修成著 太陽出版発行 高畑隆男氏より

桃太郎渥美勝の足跡 田尻陸夫著 桃の会発行 著者より 

御寄贈下さいました方々に衷心より御礼申し上げます。

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千駄木庵日乗九月二十四日

午前は、母のお世話。

午後は、今日行う講演の準備など。

午後六時より、新橋の港区生涯学習センターにて、『第十六回日本の心を学ぶ会』開催。渡邊昇氏が司会。多田恵亜細亜大学講師と小生が、「中華帝国主義といかに対峙すべきか」と題して講演。活発に質疑応答。内容は後日報告します。終了後、懇親会。

帰宅後は、諸雑務。

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2011年9月24日 (土)

支那だけが「中国」ではない。わが日本も「中国」である。

私は、出来る限り、支那のことを「中国」とは書かず、「支那」と書くことにしている。わが国も、「葦原中津国」であるからであり、「中朝」であるからである。「中国」という言葉は固有名詞ではない。支那だけが「中国」ではないのだ。わが国も「中国」なのだ。

支那における「中国」という観念即ち「中華思想」には国境の観念がない。どんどん支配地域を広げても構わないというのが「中華思想」の考え方である。これを「中華帝国主義」と言う。事実、モンゴル・満州・チベット・東トルキスタンを侵略支配している。そして近年は海洋に進出している。台湾も沖縄も支配下に置こうとしている。

「中国という言葉はすでに定着しているのだから、中国を刺激してまで無理に支那と呼称することはない」という意見があるが大間違いである。これはわが国の尊厳性・文化の独自性の保持、突き詰めればわが国の独立に関わる問題である。

世界の先進国で支那を「中国」と呼んでいる国は日本以外にない。どこの国も「支那(英語ではChina)」と呼んでいる。支那の強要によってわが国が支那のことを「中国」などと呼称する自体、わが国にとってこれほどの屈辱はないし、「日本は中国の属国であり冊封国だ」と認めることになり、わが国がとてつもない差別思想である「中華思想」を容認することとなり、「中華帝国主義」に侵略され併呑される原因となる。

わが國もまた「葦原中國(あしはらなかつくに)」即ち「中國」なのである。山鹿素行の『中朝事實』という著書がある。これは徳川時代初期に著されたもので、「日本は神國なり、天皇は神聖なり」という思想が根幹にあり、後世のいわゆる日本主義思想に大きな影響を与えた。

平泉澄氏は「山鹿素行先生は…日本こそ他國にすぐれたる國であり、正しく中華といひ、中國といひ、中朝といふべき國であるとして、ここに日本の歴史を述べて、これに題して中朝事實といはれたのであります。…中朝事實こそは、長く外國の學問に耽り、外國の思想に惑ひたる後に、一朝目覺めて日本を發見し、日本の偉大に驚歎し、ここに眞の學問として日本學を樹立組織せんとしたる先哲の偉大なる足跡といふべきであります」(『日本學叢書 中朝事實』解説)と論じている。

山鹿素行は、我が日本こそ文化概念としての「中國」であって、支那は「中國」にあらずとの前提に立っているのである。

再び言う。支那だけが「中国」であるのではない。わが日本も「中国」なのである。

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千駄木庵日乗九月二十三日

午前は、母のお世話。

午後は、明日の『日本の心を学ぶ会』における講演の準備。「中華帝国主義」について話させていただきます。

この後、病院に赴き、父に付き添う。

帰宅後も、講演準備。

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2011年9月23日 (金)

和歌について

和歌(やまとうた)は、日本の最も純粋にして最も固有な文藝である。「和歌」は、「漢詩(からうた)」に対して用いられた言葉である。「やまとうた」といふ言葉を意識的に用い出した人は、紀貫之といはれてゐる。

紀貫之は、平安前期の歌人、歌学者。三十六歌仙の一人。仮名文日記文学の先駆とされる『土佐日記』の作者である。加賀介、土佐守などを歴任。醍醐天皇の勅命で『古今和歌集』撰進の中心となり、「仮名序」を執筆した人。

和歌の勃興は日本ナショナリズムの勃興と切り離せない。漢風文化が浸透し、和風文化が軽視された時代が長くつづいた。『萬葉集』完成以後、約百三十年間(平安朝前期)、わが國の文学は漢文学であった。漢詩の勅撰集は撰進されたが和歌の勅撰集の撰進はなかった。

「やまとうた」は、「まつりごと」から発生したと考へるのが正しいのではないか。日本では太古から、天地自然の奥に生きてをられる天地の神に、五穀の豊饒や民の幸福を祈るまつりごとが行はれてゐた。そのまつりごとにおいて祭り主が神憑りの状態で「となへごと」が発した。神憑りの状態から発せられた「となへごと」が度々繰り返された結果、一定の形をとるやうになったのが「やまとうた」(和歌)の起源である。祭祀における「となへごと」は、やまとうたのみならずわが國の文藝全体の起源である。

祭祀における「となへごと」は、「七・五調」あるいは「五・七調」に自然に整へられたといへる。これは「七・五調」あるいは「五・七調」といふ調べに、日本人の魂をゆさぶる何ものかがあるといふことである。そして和歌が「五・七・五・七・七」といふ短歌形式になっていったのであらう。

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千駄木庵日乗九月二十二日

午前は、母のお世話。医師の往診があり、母と小生の体調を見ていただく。異常なしとのこと。

午後は、原稿執筆。

この後、病院に赴き、父に付き添う。よく寝ている。看護師の方にお話をうかがう。

千駄木に戻り、幼い頃からの知り合いのご夫婦と懇談。

帰宅後は、資料の整理など。

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2011年9月22日 (木)

神社のお祭りと創価学会

秋祭りがたけなわである。創価学会機関紙『聖教新聞』本年九月十八日号掲載の「新やさしい教学」という記事に、「仏法の根本にたがうことなければ、その地域の風習を用いるべきであるとされているのです」「今日の祭りは、宗教的な意味合いはほとんどなく、地域の親睦という社会的、文化的な意味合いのものです。したがって、参加することに何も問題はありません。私たちの参加は、地域友好のためであって、拝みに行くわけではないからです。」「人間の文化はなんらかの宗教から生まれたものがほとんどです。その多様な文化を尊重し、包んでいくのが仏法の精神です」と書かれている。

平成十年年九月九日付け創価學會機関紙『聖教新聞』で当時の秋谷栄之助会長は、学会員の祭りへの参加についての質問に答えて、「今日、祭りとはいっても、宗教に起源をもっていますが、もはや宗教的な意味はほとんど薄く、むしろ地域の親睦をはかるという社會的、文化的な面が強くなっています。したがって、この種の祭りについては、参加することは何ら問題ありません」「(日蓮)大聖人は『随方毘尼』といって、仏法の本義に違わない限り、その地方の風習に従ってもよいとの原理を示されています」「もし宗教的目的に賛同して、他宗の本尊や神体を信じて拝むのであれば、それは謗法です。しかし町會や自治會の一員として、仮に宗教的色彩のある祭りなどの行事に参加したとしても、信じて拝むのでなければ、謗法にはなりません」「具体的には、祭りにおいて御輿を担がざるを得ない場面があったとしても、地域役員として宗教色の濃い儀式などに立ち会わざるを得ない場面があったとしても、それは地域の文化行事への参加と同次元のことである。…ただちにそれを謗法とはいえません」と論じている。

 

これは創価學會員が祭礼に参加し御輿を担いでも問題はないと言っているのである。神札に悪鬼邪神がすみついているのなら御神輿にもすみついているはずである。しかしそれをかついでも謗法にならないというのだから創価学会も変わったものである。事実、公明党議員が神社に参拝したり祭りに参加している。

そもそも神社神道はいわゆる「教団宗教」「救済宗教」(一人の人物の説いた教義を絶対のものとし、他の宗教を排撃あるいは否定して布教し世を救済しようとする宗教)ではない。神道は古代日本以来、天皇(すめらみこと)を祭り主とする祭祀宗教(民族発生以来崇めてきた天神地祇をお祭りし五穀豊饒を祈念する共同体宗教)である。わが日本は天皇を祭り主とする信仰共同体である。したがって神社神道は何ら他の宗教と相対立するものではない。だからこそ日本は古代以来外来宗教の受容に寛大であったのだ。聖徳太子・聖武天皇は仏教受容にきわめて大きな役割を果たされた。また御歴代の天皇で御退位後出家された方もおられる。

 

秋谷氏は、「祭りは文化的面が強い」「仏法の本義に違わない限り、その地方の風習に従ってもよい」「(祭りへの参加は)地域の文化行事への参加と同次元のこと」と言っているが、まさに神社の祭礼は、日本文化の中核行事であり、信仰共同体国家の基本である。これに参加することが日本民族の原点である。

創価学会員も大いに神社のお祭りに参加してもらいたい。またもう一歩進めて正々堂々神社に参拝してもらいたいし神札もお祀りしてもらいたい。日蓮聖人がいかに敬神尊皇の念に篤かったかは数々の文証に明らかである。

小生は、創価学会が神社神道を否定し、他の宗教を排撃する姿勢を改めるのは、日本にとってもまた学会にとっても良いことであると思う。しかし、この姿勢が本物であるか、そして未来永劫続くものであるかを見極めなければならない。

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千駄木庵日乗九月二十一日

午前は、母のお世話。訪問介護の方と共なり。

午後二時より、三田にて、大行社幹部会開催。顧問の一人として挨拶。

ひどい風雨の中、帰宅。傘は全く役に立たなかった。昼間に東京を台風が直撃するのは久しぶりだと思う。

帰宅後は、資料の整理など。深夜、嵐去りし後の空に半月が浮かんでいた。そこで一首。

「嵐去りし 夜更けの空に 浮かぶ月 煌々として 冴えかへるなり」

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2011年9月21日 (水)

建武の中興について

建武の中興について時代錯誤だアナクロニズムだという批判が喧しいが、決してそうではない。武家の軍事力・権力=覇道を排し、天皇・皇室の神聖権威=皇道を根幹とした理想国家建設をめざした一大変革が建武中興である。

また、後醍醐天皇が目指されたのは、単なる天皇権力の回復ではないし、天皇専制独裁政治の実現を目指されたのではない。摂関政治・院政・武家の専横を排され、上御一人日本天皇を唯一の君主と仰ぐ肇国以来の「一君萬民の國體の真姿回復」を目指されたのである。これが建武の中興において後醍醐天皇が目指された理想である。

後醍醐天皇は、臣下たる武家幕府が、皇位継承にまで介入して来るという異常事態を是正し、皇位継承は天皇のご意志によってのみ決せられるべきであるという國體の真姿回復につとめられた。それは朱子学の「大義名分論」と共通する思想精神であった。

和辻哲郎氏は、「建武中興の事業は短期間で終わったが、その与えた影響は非常に大きかった。…建武中興が表現しているのは、武士勃興以前の時代の復活である。神話伝説の時代には、天皇尊崇や清明心の道徳が著しかった。…しかし鎌倉時代の倫理思想の主導音は、…武者の習いであり、…慈悲の道徳であった。建武中興は、この主導音を押えて、それ以前の伝統的なものを強く響かせはじめたのである。だからこのあと、武家の執権が再びはじまってからも、幕府の所在地が鎌倉から京都に移ったのみではない。文化の中心が武家的なものから公家的なものに移ったのである。…室町時代は日本のルネッサンスの時代であるということができる。…そのルネッサンスを開始したのは、建武中興の事業であった。」(『日本倫理思想史』)と論じておられる。

これはもっとも正統なる建武中興への評価である。後醍醐天皇は「朕の新儀は未来の先例たるべし」と仰せになり、大胆な改革を実施せんとせられた。この言葉は単に、後醍醐天皇の定められた「新儀」を以て全ての「旧儀」に代えるというものではない。旧儀についても、用いられるべきものとそうでないものとを弁別し、且つ、将来にわたって用いられるべき「先例」を、後醍醐天皇の大御心によって決定せられるということである。

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千駄木庵日乗九月二十日

午前は、母のお世話。

午後は、原稿執筆。

この後、病院に赴き、父に付き添う。

帰宅後も、原稿執筆。

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2011年9月20日 (火)

この頃詠みし歌

静かなる病室に眠る父上のやすらぎの顔に我もやすらぐ

熱を出し苦しむ父に手を当ててひたすら祈るほかにすべなし

熱のある父の額と首筋に手を当てにつゝ神に祈るも

老いませる母の手を取りエレベーターに乗りて我が家に帰り着きたり

あれほどに活発なりし若き日の母を思ひて胸迫るなり 

夜の更けにひとりもの書く時にしも冷蔵庫の音が聞こえ来るなり

旅ゆきし昔を偲ぶ十津川に水の禍(まが)あり悲しきろかも

霧にけぶる玉置神社に参りたる思ひ出遠し神秘なる山

煙草吸へば厚労大臣の顔が浮かび来る 今ぞまさしく節煙の時

不安なる心を何とか打ち消さん その思ひにて仰ぐ月影

一人立ち空を仰げば今日といふ日は暮れてゆく我は生きゆく

わけのわからぬ話を聞きて辟易す 蒸し暑き日の午後なら尚更

満月は我の心を見透かすか 恐ろしきまでに煌煌と照る

わが心清めるが如く煌煌と満月の光を降りそそぎゐる

佳き人の面影偲ぶ夜の道 見上げれば満月が冴え返るなり

殆どが友人知人の集ひゆゑ心のどかに杯を重ねる

生れてより六十四年を千駄木で暮らし来たりて心たらへり

流されゆきし人々の事を思ほへば天譴などとはいはれざりけり

怒りあり不安もありて日々(にちにち)を過ごせど生きゐることを諾ふ

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千駄木庵日乗九月十九日

午前は、母のお世話。

午後は、北区にある四宮家の菩提寺に赴き、先祖のお墓を掃苔。ご加護を祈る。ご住職夫人にご挨拶。小生の幼少の頃、ご住職は青年僧侶であられた。そのご住職は、今日は成田山新勝寺に布教講演に行かれているとのこと。先祖のお墓にお参りすると本当に心が落ち着く。

この後、病院に赴き、父に付き添う。すやすやと寝ていた。一安心。

帰宅後は、資料の整理。

今月中に書かねばならない比較的重要な原稿が二本ある。そして、二十四日の『日本の心を学ぶ会』における講演の準備もある。暑さはやわらいだか、台風が迫っている。

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2011年9月19日 (月)

『特別展・名物刀剣ー宝物の日本刀』を参観して思う

根津美術館は、東武鉄道の社長などを務めた実業家である初代・根津嘉一郎氏の収集品を展示するためにつくられた美術館。美術館の敷地は根津嘉一郎氏の私邸跡。広大な日本庭園があり、庭内を散策すると山の中に来たような気がするくらい鬱蒼と木々が茂っている。池もある。今日の上場企業の経営者はその殆どがいわゆるサラリーマン社長だから、とてもこのような大邸宅は建てることはできない。

『特別展・名物刀剣ー宝物の日本刀』は、「日本刀は『武士の魂』といわれ、刀剣は武士にとって最も大切な道具でした。戦国時代、天下取りに命運をかけた織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らも、『名物刀剣』を大量に手中に収めることに意を尽くしました。…本展では、名だたる武士が所持したと伝わる日本刀の名物を中心に、国宝9件、重要文化財22件、重要美術品3件を含む約50件を一堂に展示します。」との趣旨(案内書)で開催された。

国宝の「短刀 無銘 正宗(名物 庖丁正宗)」「太刀 銘 三条(名物 三日月宗近)」、重要文化財の「三鱗文兵庫鎖太刀(号北条太刀)」「黒漆太刀 (号 獅子王)」などが展示されていた。わたしは、重要文化財の「黒漆太刀 無銘」「短刀 名吉光」がとても美しいと思った。刀剣は言うまでもなく、武器であり有体に言えば人を斬る道具であるが、日本刀は発する光も姿形も実に美しい。まさに美術品である。

それにしても、展示された刀剣は、徳川美術館所蔵の刀剣が非常に多かった。半分くらいは徳川美術館のものであったと思う。

信長・秀吉・秀頼を経て家康のものになった刀剣が多かった。つまり、戦国の覇者徳川家康がその武力と権力で自分のものにしたのである。『切り取り強盗は武士の習い』という言葉は真実である。

大阪城落城の時には、豊臣家所蔵の刀剣・美術品の多くが焼けてしまったが、焼け残った物は、もちろん徳川の所有になった。戦利品という言葉があるが、勝った者が負けた者の所有物を手に入れるのは当時は当たり前のことだったということである。

徳川宗家ではなく、尾張徳川家に刀剣・美術品が伝わっているようである。徳川宗家のものは公開していないのであろうか。

わが国においては、刀剣は神聖なるものとして大切にされてきた。皇位の「みしるし」として、御歴代の天皇が伝承される「三種の神器」(やまとことばでは、みくさのかむたから)に「剣」があることがそれを明白に証明している。

「神器」とは、神の依代(よりしろ・神霊が出現するときの媒体となるもの)であり、神霊の寄りつくものを意味する。古代日本における劔・矛・弓などの武器は、鎮魂の祭具であり神事的意味を持つ。

草薙(くさなぎのつるぎ)」は、須佐之男命が、『記紀神話』では出雲國簸川上(ひのかわかみ)で八岐大蛇(やまたのおろち)を切った時に、その尾から出現したと傳へられる剣である。「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」とも称される。

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根津美術館の庭園

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千駄木庵日乗九月十八日

午前は、母のお世話。

午後は、南青山の根津美術館で開催中の『特別展・名物刀剣ー宝物の日本刀』参観。

夕刻、日本橋にて、知人と懇談。日本橋の真上に高速道路が通っているのはなんとかならないものだろうか。関東大震災までは、日本橋のたもとに魚河岸ががあった。その記念碑が建っていた。

帰宅後は、資料の整理など。

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日本橋魚市場発祥の地の石碑。

隣の女性の石像は不勉強でなんだかよくわからない。

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2011年9月18日 (日)

神道と近代日本

村上重良などの左翼歴史学者・宗教学者は、明治初期から終戦までの間、神社神道が国教とされ他の宗教は抑圧されたという説を喧伝している。しかしそれは大いなる誤りである。

明治維新当初は、祭政一致の古代国家再生が実行されようとしたが、それは文明開化路線とは相容れずかつまた仏教教団の反対にあって頓挫してしまった。村上の説は誤りである。神道はむしろ形骸化されたというべきである。

当時の権力者・伊藤博文、井上毅などはほとんどは政教分離論者であったという。近代化か促進されるとともに、祭政一致の理想は軽視されるようになった。第二維新すなわち明治維新の理想貫徹をめざした人々=神風連は勿論、西郷隆盛や江藤新平らは、大体神道を重んじ、キリスト教や仏教には批判的であったが、そういう勢力は疎外されてしまった。

ともかく「国家神道制度が神道の宗教活動を抑圧した。外来宗教を排斥した」というのは誤りである。むしろ、『国家神道制度』は、神社神道を骨抜きにしたと言い得る。

窮極においては、日本民族は日本伝統信仰に回帰すべきである。これは外来宗教排斥ではなく外来宗教融合摂取の基盤確立であり確認である。それをしなかったら日本が失われる。神道の伝統精神まで骨抜きにされては困る。特に造化の三神への信仰の否定は神道の根本を否定することとなる。そうした「国家神道」が国民の正しい精神を涵養できなかったのは当然である。これが明治以後の日本の大欠陥である。

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千駄木庵日乗九月十七日

午前は、母のお世話。

午後一時より、九段の靖国神社境内の靖国会館にて、『第二回・里見日本文化研究所学術研究大会』開催。

この後、病院に赴き、父に付き添う。

団子坂下にて、根津神社祭礼の神輿渡御を見る。

帰宅後は、書状執筆。

                ◎

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根津神社祭礼

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2011年9月17日 (土)

小林節慶応義塾大学教授の講演内容

九月十三日に行われた「一水会フォーラム」における小林節慶応義塾大学教授の講演内容は次の通り。

「憲法を専攻してきた者から見ると、今の日本には政治が存在しない。国家として決断できない。政治から責任を取ろうというシグナルがない。

日本がアメリカと手を切ったら、中国だけでなく、韓国・北朝鮮すら出て来る。中国は、『卑弥呼の時代は日本の中国の属国だった』と言い出す。

千島は日本列島の一部。日本は放棄していない。竹島は、李承晩が暴力的に占拠しただけのこと。尖閣もわが国の領土であることは歴史的事実。日本が国家としての意志・能力を持たなくなって問題が出て来ている。

役人・政治家・経済学者は意外と馬鹿な人々。この国がどんどん崩れてしまっているのは事実。東日本大震災の時、総理の取るべき立場は、日付の無い辞表を書いて、国民に見せることだった。野党第一党の代表に、公開の場で辞表を渡す。『逃げません』という意思表示。役人は、法律と上役の指示と先例と予算がないと動かない。総理は役人に『刑事犯罪ではない限り何でもやってくれ。行き過ぎがあったら私が責任を取る』と言えば良かった。男らしい政治家が育たないのが日本の風土。

『憲法』に非常事態に関する事項がない。だから有事法制を作ると『違憲』と言われる。『憲法』の前文がおかしい。尖閣事件を起こした中国人や金正日を見れば『平和を愛する諸国民』ではないことが分かる。拉致事件では、日本の統治権がズブズブに侵された。

今の『憲法』ではリーダーシップが生まれるのは困難。地方分権を美化しているが、江戸時代は三百諸侯が国を作ったのではない。天皇を中心に統一した国。

憲法上根拠のない地方主権は見直すべし。海は一番簡単な渡り廊下になった。私は議院内閣制ではリーダーシップが生まれないと批判しただけ。大統領制には反対。首相公選制も反対。全国で一人を選ぶとカリスマ性が生まれるので、天皇制と矛盾する。日本を束ねるには、天皇制が向いている。青島・ノックのような変な芸能人が大統領になる可能性がある。元首は天皇。党首が替わったら必ず総選挙をするのが良い。

日本は改憲規定が一番厳しい国ではない。アメリカは五十州の四分の三の決議がなければ改憲出来ない。

自民党の党是は改憲。民主党も過半数が第二自民党。この二つが合体すると三分の二は超える。枝野氏も改憲論議で私と意見がかみ合う。今の憲法では国家運営のマニュアルとして立ち行かぬ。今の憲法の良きものは残し、そこに日本の魂をぶち込んだ憲法を作る。

『六法全書』が残り、国が滅び女房子供が殺されるのでは駄目。法の不備・政府の無能・外敵の侵略に対しては、持てるあらゆる手段を用いて抵抗すべし。憲法は時代の産物。

天皇には政治責任の行かない地位にいていただくことが大事。天皇は神々しい象徴的存在。国軍を持つことになれば、軍の最高指揮官は、天皇の親任を受け、将官は、天皇の認証を受ける。

国家としての自立的意思の形成ができない状態の今の日本が、アメリカと手を切るのは無理。アメリカ人の行動様式にない日本軍兵士の戦い方にアメリカは驚いた。おびただしい戦死者と精神異常の兵士を作った。そして原爆を使った。今のアメリカは『九条』を改正して日本にアメリカと共に戦ってほしいと思っている。

『砂利を入れさせろ、人夫を入れさせろ、みかじめ料を払え』というのは違法行為。そういう人たちが存在しドンパチするのは正しい社会の在り方ではない。指定暴力団と言われる人々に任侠道はあるのでしょうか。麻薬・債権取り立て・弁護士法違反などが事実として重なった。暴力団対策は否定されるべきではない」。

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千駄木庵日乗九月十六日

午前は、母のお世話。

午後は、『政治文化情報』発送準備作業。

この後、病院に赴き。父に付き添う。

帰途、谷中にて、知人と懇談。

帰宅後も、発送準備。

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2011年9月16日 (金)

「創刊十五年『月刊日本』を叱咤激励する会」

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「創刊十五年『月刊日本』を叱咤激励する会」が盛大に開かれた。小生はこの雑誌に『萬葉集に歌はれた日本の心』という連載原稿をずいぶん長い間書かせていただいている。今、雑誌の経営は大変厳しいものがある。インターネットの発達で活字離れが起こっている。また、企業なども最近の経済状況の中でなかなか広告を出さない。南丘喜八郎氏をはじめとしたスタッフ方々のご苦労は大変なものであろう。私も小さな個人雑誌を発行しているので察するに余りある。

今日の会合では、編集長の坪内隆彦氏が開会の挨拶を行い「奇跡的に生きているのは皆様のおかげ」と語った。

続いて、小田村四郎元拓殖大学総長が発起人を代表して挨拶し、「野田新総理の閣僚人事、党役員人事は鳩山・菅内閣より悪い」と語った。

菅沼光彦氏は、「暴力団排除条例が全国の自治体で施行される。暴力団か任侠団体かの裁判はまだ決着がついていない。そうした中で警察庁は社会の中で孤立させようとしている。暴力団礼賛の雑誌は本屋の店頭から無くなる。せせこましくやっている。集団のイジメではないのか。近く『よみがえれ任侠道』という本を出す。」と語った。元公安調査庁の幹部にしては大変思い切った内容の話であった。

亀井静香衆院議員は「『月刊日本は』孤軍奮闘している。今の日本人は『盲(めしい)たる民』になっている。人類は文明の反逆を受けている。震災復興は心の復興でなければならない。」と語った。

このほか、多く方々が祝辞を述べたが、メモを取ることができなかった。

最後に発行人の南丘喜八郎氏が「他の雑誌は大資本。経営のために主張を変える。日本の自立・独立を達成するための一助になりたい。経営が苦しくて食うものはなくても飲むものはある。日本人が等しく幸せになれる国にしたい」と語った。

         ○

『月刊日本』のますますの活躍を祈るものである。

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小田村四郎氏

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南丘喜八郎氏

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千駄木庵日乗九月十五日

午前は、母のお世話。

午後は、『政治文化情報』発送準備。

午後六時半より、グランドアーク半蔵門にて、「創刊十五年『月刊日本』を叱咤激励する会」開催。

帰宅後も、発送準備。

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2011年9月15日 (木)

大東亜戦争はなぜ戦われたのか

今年は大東亜戦争開戦に七十年の年である。昭和天皇は、わが國が戦争に追い込まれて行った原因について、「原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分な物である。」「総理になった東條は、九月六日の午前会議の決定を白紙に還すべく、連日連絡会議を開いて一週間、寝ずに研究したが、問題の重点は油であった。…実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追込んだものである。かくなつた以上は、万一の僥倖に期しても戦った方が良いといふ考が決定的になったのは自然の勢と云はねばならぬ」(『昭和天皇独白録』)と仰せになっている。

鈴木貞一氏はテレビで、「資源が無いのに何故アメリカと戦争をしたのですか」との質問に対し「資源が無いから戦争をはじめたのだ」と答へていたと記憶する。

開戦前のアメリカによるわが国への圧迫は、①対日通商條約の一方的破棄(昭和十四年七月)②航空燃料の輸出禁止(昭和十五年七月)③屑鉄の輸出禁止(同年五月)④在米全日本資産の凍結(昭和十六年七月)⑤石油の全面禁輸(同年八月)といふものであり、まさに真綿で首を絞めることをして来たのである。

さらに、昭和十六年十一月二十六日、わが軍の仏印・支那大陸からの撤退、王精衛の南京国民政府及び満州国の否認、日独伊三国同盟の死文化を求める米国務長官コーデル・ハルの最後通牒=「ハル・ノート」を突き付けてきた。この「ハル・ノート」をについてパル判事は、「同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国に対して戈をとって起ちあがったであろう」(『パル判決書』)と書いている。

わが国は、まさに『開戦の詔勅』に示されている通り「帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ頻セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衛ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ」といふ状況に立たされたのである。

佐藤優氏は、「日本国民は当時の国家指導者に騙されて戦争に突入したのでもなければ、日本人が集団ヒステリーに陥って世界制覇という夢想に取り憑かれたのでもない。日本は当時の国際社会のルールを守って行動しながら、じりじりと破滅に追い込まれていったのである。あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないか」(『日米開戦の真実』)と論じている。

対米英戦争がわが國の自存自衛の戦ひであったことは、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが、米上院外交合同委員会で、一九五一年五月三日、「原料の供給を断ち切られたら、一千万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」と証言したことによっても明らかである。

東條英機元総理はその「遺言」において、「英米諸国人ニ告グ…諸君ノ勝利ハ力ノ勝利ニシテ、正理公道ノ勝利ニアラズ。…大東亜戦争ハ彼ヨリ挑発セラレタルモノニシテ、我ハ国家生存、国民自衛ノ為、已ムヲ得ズ起チタルノミ。コノ経緯ハ昭和十六年十二月八日宣戦ノ大詔ニ特筆大暑セラレ、炳乎トシテ天日ノ如シ。故ニ若シ世界ノ公論ガ、戦争責任者ヲ追求セント欲セバ、其ノ責任者ハ我ニ在ラズシテ彼ニ在リ、乃チ彼国人中ニモ亦往々斯ク明言スルモノアリ。」と切言している。

大東亜戦争は決して日本による侵略戦争ではなかったのである。

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千駄木庵日乗九月十四日

午前は、母のお世話。

午後は、資料の整理など。

この後、病院に赴き、父に付き添う。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が、柿本人麻呂の歌を講義。質疑応答。

終了後、出席者の方と懇談。

帰宅後も、資料の整理。

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2011年9月14日 (水)

民主党政権になってから、国会議員の皇室への不敬言動が続発している

畏友・小田内陽太兄より次のようなメールをいただいた。 

          ○

産経新聞九月十三日配信記事

「無所属で民主党会派に所属する平山誠参院議員が、13日の開会式に臨席される天皇陛下を衆参両院議員が整列して迎えた際、陛下を携帯電話のカメラで撮影していたことが同日、分かった。自民党参院議員ら複数の議員が目撃した。

平山氏は産経新聞などの取材に対し、今回に限らず毎回撮影していることを認めたが、『撮影時には陛下は(国会の階段を)上がられていて今回は(お姿を)撮れていない』と釈明。『参列を撮ったり、礼をしているときに撮ったら失礼だが、それはしておらず陛下に礼を欠く態度では撮っていない』と述べた。

これに対し、自民党からは『陛下に対して畏敬の念がない。緊張感が足りない』(小坂憲次参院幹事長)などと批判が噴出。同じ会派の民主党の羽田雄一郎国対委員長らからも問題視する声が上がっている。

国会における皇室への問題行動では、民主党の中井洽衆院予算委員長が昨年の議会開設120年記念式典で、来賓の秋篠宮ご夫妻に『早く座らないとこっちも座れない』などと不平を漏らし、批判を浴びたことがある。」

千駄木庵主人曰く。

開会式が始まっているのに携帯電話を持ちだして写真を撮るという行為そのものがもはや人としての常識をわきまえない行為だ。落ち着きのない、いたずらっ子の高校生・中学生がすることだ。いい大人、しかも参議院議員がこういうことをするのだから、あきれ果てる。

いわんや、議場内しかも開会式で、天皇陛下にカメラを向けるとは何事であろうか。政治家の質の低下がこれほどまでになっているのだ。平山誠という人物は、新橋で鳩山由紀夫氏と居酒屋を経営していたと言う。参院議員を即刻辞めて、居酒屋経営に戻るべきだ。

小沢一郎・中井洽に続く許し難い不敬言動である。岡田前幹事長も天皇陛下の所謂『お言葉』についておかしなことを言っていた。こうしたことは、民主党が政権を握ってから頻発するようになった。

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千駄木庵日乗九月十三日

午前は、母のお世話。

午後は、明日の「萬葉集」講義の準備。

この後、病院に赴き、父に付き添う。熱が下がりよく眠っていた。有り難い。

午後七時より、ホテルサンルート高田馬場にて、『一水会フォーラム』開催。小林節慶応義塾大学教授が、「我が国の行き詰まりはやはり憲法に問題がある」と題して講演。活発な質疑応答が行われた。内容は後日報告します。終了後、懇親会。談論風発。高歌放吟はなし。

帰宅後も、明日の講義の準備。

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2011年9月13日 (火)

四面楚歌と国家革新

 ロシアによる北方領土不当占拠の強化及び我が国に対する軍事挑発行為。

 韓国による竹島不当占拠。

 北朝鮮によるミサイル攻撃の危機及び我が国国民の拉致。

 共産支那による尖閣侵略策謀、軍事的恫喝。

この四つが、今わが国が置かれている状況である。「四面楚歌」とはこのことであろうか。

その上、同盟国アメリカは、わが国の真珠湾のアメリカ軍事施設に対する限定的攻撃を、九・一一無差別テロ・破壊行為と同列に置いている。

こうしたことに対して、わが国政府は自民党政府の時代から、有効な対抗策を講じることができなかった。民主党政権になってさらに外交姿勢が悪化した。「日本列島は日本人だけのものではない」などという総理大臣が出現し、国を守る組織を「暴力装置」などという官房長官が出現したのだから、侵略国家が攻勢をかけて来るのは当然だ。

地団太踏んでいるだけではしょうがない。何とかしなければならない。今こそ、国家革新を断行しなければならない。

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千駄木庵日乗九月十二日

午前は、母のお世話。訪問介護の方と共なり。

午後は、水曜日に開かれる『萬葉古代史研究会』における講義の準備。

午後六時より、北青山の大東会館にて、『時局戦略懇話会』開催。当面する諸課題について討議。下條正男拓殖大学教授に出席していただき、竹島問題・宮内庁所蔵の朝鮮本韓国引き渡しの不当性などについて貴重なお話を伺った。

帰宅後も、講義の準備。

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2011年9月12日 (月)

「侵略国家の烙印」を徹底的に払拭しなければならない

わが國混迷の根本原因は、「大東亜戦争は日本による一方的な侵略戦争だったのであり、これによってアジア諸國・諸民族に甚大な災厄をもたらした」「近代日本は侵略の歴史だった」という歴史認識が横行し、日本國民の多くが祖國の歴史に対する誇りを持てなくしていることにある。祖國の歴史に誇りを持てなくなれば、國を愛し忠誠を誓うといふ最高の道義、國を護るという崇高な意志も喪失する。その結果、内政・外交・防衛・教育・文化等々あらゆる面においてわが國の混迷と弱体化をもたらす。今日の日本は正しくそういう状況にある。

「日本は侵略戦争をした悪い國である」という歴史観は、國家の基本法たる『日本國憲法』の「前文」にも麗々しく書かれてをり、且つ、終戦五十年の『内閣総理大臣談話』(閣議決定)にも書かれている。つまり「侵略戦争史観」はわが國の「國是」になっていると言っても過言ではない。

これでは、わが國は何年たっても、混迷から脱却してまともな國即ち道義國家・自主独立國家になることはできない。それどころか亡國への道を歩み続ける事となる。

今年は、大東亜戦争開戦七十年である。わが国はなにゆえ大東亜戦争を戦わねばならなかったのか、そしてなぜ敗北したのかを考察するべきである。そしてさらに、NHKや朝日新聞などの偏向マスコミが喧伝する「東京裁判史観」「自虐史観」を否定し、「侵略者の烙印」を一日も早く徹底的に払拭しなければならない。

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千駄木庵日乗九月十一日

午前は、母のお世話。

午後は、諸雑務。

この後、病院に赴き、父に付き添う。まだ熱がある。

千駄木に帰り、友人ご夫妻と懇談。

帰宅後は、資料の整理など。

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2011年9月11日 (日)

国難とやまと歌の復活

人間の心を表現する言葉ほど大切なものはない。言葉のない生活は考えられない。言葉は、人と人とを結合させ人と人との間をつなぎ相互に理解を成立させるものであると思う。言葉は、共同体において生活する人間が、お互いに理解し合うための表現形式である。言葉は、人間生活そのものを体現するのであり、人間が共に生活する共同体は基本的に言葉によって形成される。「言葉の乱れは世の乱れ」といわれる所以である。今の日本は乱れている。乱世である。その原因は、言葉の乱れにあると考える。

日本人の魂は、今、よすがなく彷徨っているように思える。彷徨える魂を鎮め、鎮魂し、再生させるために、やまとことば・言霊の復活が大切である。それは、言霊が籠り、天地(あめつち)を動かし目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせる「やまとうた」の復活である。今日において、まさに、「国風文化」が復興しなければならない。大化改新という大変革・壬申の乱といふ大動乱の時に『萬葉集』が生まれ、平安中期の国風文化勃興の時に『古今和歌集』が生まれたよに、畏れ多いが、国難に晒されている今日においても、偉大なる「勅撰和歌集」が撰進されるべきであると信ずる。それが言霊の復活であり、世の乱れを正す大いなる方途である。

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千駄木庵日乗九月十日

午前は、母のお世話。

午後は、病院に赴き、父に付き添う。また熱が出ている。高齢なので少しの発熱でも苦しそうである。本当に切ない。医師及び看護師の方と相談。

帰宅後は、原稿執筆・脱稿・送付。今日は出席すべき会合があったのだが、病院に行かねばならず、また、今日中に原稿を印刷所に原稿を送らねばならなかったので、欠礼した。残念である。

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2011年9月10日 (土)

野依秀市先生と念仏信仰

『歎異抄』に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」「親鸞は父母のためとて、一返にても念仏したること、いまださふらはず。」という言葉があるので、親鸞はあくまでも個人の救済を重視していたと理解する人がゐる。また浄土教・阿弥陀信仰は、「厭離穢土・欣求浄土」という言葉もある通り、厭世的で来世に救いを求める信仰と理解する人が多い。したがって、日蓮信仰と比較すると、国家・社会改革に対しては積極的ではないと思われてきたようである。私もその一人てあった。

ところが私が高校生時代に書生をさせていただいた野依秀市先生は、晩年に至るまで活発なる言論運動・政治運動・愛国運動を活発に展開した。のみならず生涯を通して戦闘的姿勢を貫いた人である。野依氏が許せないと思った政治権力者・財界・軍部・学者など他者に対する非難攻撃は凄まじかった。そのために四度にわたって囹圄の身になった。それは、浄土真宗宗門にも及んだ。

大正十二年七月には「大谷光瑞氏に自決を勧告して本願寺の改革と門徒諸氏の覚醒に及ぶ」という著書まで出している。しんだら極楽浄土に往生すると説いているのに、「自決勧告」とは面白いが、野依先生には、退嬰的あるいは厭世的な生き方は微塵も見られなかった。

野依秀市先生は次のように論じている。「未來で極樂淨土に參らせて頂ける、と云ふことになって居るが我々は之を信ずる。信ずればこそ其處に人生の樂しみがある。既に世の中に樂しみを有して居るからには、この現世が厭になったり早く死なうなどと思ったりする譯がない。…國家社會のことにしても、その現状及び將來を悲觀してこそ、其處にこれでは可けない、轉回の必要があると感じ、それが爲に大なる元気を出し、大なる希望を見出して、大いに奮闘しやうとするのである。この境地に達せんとするには、一旦、小我を捨てて大我を見、他力に依って極樂を信じ、眞に親鸞の教に歸依しなくてはならぬ。」(『絶對の慈悲に浴して』)と論じている。

考えてみれば、一向宗は近世初期、織田信長と果敢に戦ったし、一揆も起こした。もともとは戦闘的であり行動的だったのである。それが退嬰的と言われるようになったのは、徳川三百年の太平、そして徳川幕府の宗教政策に呑み込まれてしまったからであろう。

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千駄木庵日乗九月九日

午前は、母のお世話。訪問介護の方と共なり。

午後からは、在宅して『政治文化情報』の原稿執筆。

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2011年9月 9日 (金)

わか母校・二松学舎について

私の母校・二松学舎大学は千代田区三番町にある。私が授業を受け、また六年間奉職した旧校舎は、今は無くなってしまった。そればかりか、母校の入学式など重要な行事が行われた九段会館も閉館になった。まことにさみしい限りである。

しかし、校歌に歌われている「靖国の桜」も「緑こき大皇居」も永遠である。そして新校舎の「仰ぎて清きこの学舎」は、伝統を担いつつ、次代を担う学生たち育んでいる。

二松学舎の校歌の歌詞は、

「平和の御国 栄えん花と 靖国の 桜は匂ふ 窓染めて あヽ緑こき 大皇居 仰ぎて清き この学舎」

である。

校歌に、皇居と靖国神社が歌い込まれている学校は二松学舎のみであろう。

今、祖国は大変な危機にある。こういう時にこそ、漢学と国文学の伝統を継承する二松学舎の使命はまことに重大である。二松学舎よ、永遠なれ。

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千駄木庵日乗九月八日

午前は、母のお世話。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、病院に赴き、父に付き添う。また熱が出ている。

帰宅後はも、原稿執筆。

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2011年9月 8日 (木)

三島由紀夫氏の預言と現代

會田雄次氏は、「預言者とは、民族・共同体の危機を普通の人々よりもはるかに早く直感する人である。他人に見えないものが見え、聞こえないものが聞こえる人である。」(『預言者サヴォナローラとその運命』)と言った。

三島由紀夫氏は自決直前の文章で、「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代はりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、抜け目がない、或る經濟的大國が極東の一角に殘るのであらう。」(『私の中の二十五年』・昭和四十五年七月七日発表)と述べてをられる。

會田氏のいふ「民族・共同体の危機を普通の人々よりもはるかに早く直感」した文章であり、三島氏の自決以来四十一年を経過した今日の日本を預言してゐる文章である。今日の日本は昭和四十五年当時よりもさらにひどい偽善の世となり、ますます欺瞞的な戰後民主主義・平和主義がはびこり、病状は瀕死の状態となってゐる。

そして、経済大國の地位すら危うくなり、國民は疲弊している。日本は抜け目なく生きることすらできなくなっている。つまり、歴史と傳統の國日本だけでなく、経済大國・偽善の國日本すら消えてなくなってしまうかもしれないのだ。偽善の國日本は消えてなくなるのはともかく、天皇国日本は絶対に護りぬかねばならない。

私たちは、三島氏がのこされた言葉と行動を今一度深く学び、歴史と傳統の國日本の再生のために戰後及び現代の偽善と戰はねばならないと思ふ。

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千駄木庵日乗九月七日

午前は、母のお世話。

昼は、知人と懇談。諸情勢について意見交換。

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆。

この後、病院に赴き、父に付き添う。

帰宅後も、原稿執筆。

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2011年9月 7日 (水)

荒木和博氏からのメール=山岡賢次のあきれた発言


今日いただいた荒木和博氏からいただいたメールに次のようなことが書かれていたので紹介します。

「 4日の日曜日、都内で開催された家族会・救う会・拉致議連共催の「緊急国民集会」のときの話です。私も報告をさせていただいたのですが、控え室でこんなことがあったそうです。

 この集会では山岡新大臣が参加し、挨拶をしたのですが、開催前に控え室で家族会の皆さんと初めての対面をしました。そのとき、あるご家族が「○○年に拉致をされました」と話したところ、大臣は「私はその年に初当選したんです」と言ったとのこと。

 実は私は顔も見たくなかったので同じ控え室の中でも一番遠いところにいたため分からなかったのですが、周りにいた人が後で教えてくれました。話しを聞いて、怒りを通り越して呆れるばかり、それにしてもよくこんな人を担当大臣にしたものです。

 昨日は松原仁・国土交通副大臣が拉致問題担当副大臣に任命されましたが、こんな兼任など意味がないことは明らかで、せいぜい家族会の批判をかわすための弾よけに使われるのがおちでしょう。

 『戦略の過ちは戦術では補えない』と言いますが、たとえ熱心なスタッフがいてもこれでは結果は最初から見えています。この現実の中でどうするのか、私たちは真剣に考えなければいけないでしょう。」

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新閣僚人事などについて

輿石を幹事長にしたこと、山岡を国家公安委員長にしたことは、やはり納得できない。これから、野党のみならず真正保守・愛国団体から大きな批判が起こることが予想される。メディアも追随する可能性がある。また、この二人は何か大きな失態を演じる危険性も高い。

野田新総理をそうしたことを見越してこの人事を行ったのかと勘繰りたくなるくらいだ。二人に対する批判が巻き起こって輿石・山岡が辞任せざるを得なくなり、その結果自民党との大連立あるいは政界再編の動きが起こる状況を作り出そうとしているのではないか。そんなことはあり得ないという人が圧倒的に多いだろうが、そうとでも考えなければ、野田氏がこんなバカな人事をした理由が分からない。

ともかく日教組という亡国組織の代表が政権政党の幹事長、そしてマルチ商法と関わり深い人物が、治安維持の責任者というのはやはり許し難い。

小宮山厚労相がたばこ税の引き上げに意欲を示したことに対し、閣僚の中からも反発の声が上がった。小宮山さんは、国民の健康のために煙草は吸うべきではないとの観点から、厚生労働省を代表して述べたと言っているようだ。

健康というのは、第一義的には自己責任である。政府が煙草の値段を上げ、国民に買わせないようにして健康を維持させるというのは、やはり行きすぎというか、国民の自主的判断を阻害することになると思う。

私は一日五本くらいしか吸わない。しかし、これからは煙草を吸うたびに、小宮山さんの顔がちらつくような気がする。だから、小宮山さんの国民の健康を心配するという意図は達成できたのではないか。

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千駄木庵日乗九月六日

午前は、母のお世話。

午後は、お茶の水にて、『伝統と革新』編集実務担当者の方々と打ち合わせ。

この後、病院に赴き、父に付き添う。久しぶりにやや意識がはっきりしていた。私に色々気を使ってくれる。申し訳なし。

午後七時より、千代田区の新九段下沙龍にて、『憲法勉強会』かいさい。同志多数が参加。この後、懇親会。最近の諸情勢について意見交換。

帰宅後は、原稿執筆。

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2011年9月 6日 (火)

『黄文雄さん「哲人政治家李登輝の原点」出版記念会』における登壇者の発言

『黄文雄さん「哲人政治家李登輝の原点」出版記念会』における登壇者の印象に残った発言は次の通り。

安倍晋三元総理「自民党青年局長の時、訪台して当時の李登輝総統にお会いした。素晴らしい政治家にお会いしてメロメロになった。当時の若い政治家は李登輝ファンになって、その後生長していった。日本は金美齢・黄文雄という二人の愛国者を獲得した。野田新総理は、正しい歴史観を持っているらしいが、自分に信念に従ってどういうことを実行するかにによって評価される。日本と台湾とアメリカが手を結ぶことがアジアの平和の基礎」。

田久保忠衛氏「伊藤潔氏(故人)の御縁で李登輝氏にインタビューすることができた。黄文雄氏の著書は李登輝氏を総合的に評論した初めての本。デカルト、カント、西田幾多郎の哲学が李登輝氏の心情につまっている」。

金美齢さん「黄文雄は台湾独立連盟の最も若い同志だった。機関紙『台湾青年』に載せる論文を周英明や宗像隆幸が指導した。努力と精進を重ねた。日台のために頑張った。見事に化けた。良くやった。立派だ」。

小池百合子さん「台湾くらい日本を思って下さる国が何処にあるか。東日本大震災で台湾は大変な救援をしてくれた。それに対する日本政府の対応に憤りを感じる。自民党は感謝の盾を台湾に贈った。そして入院されていた李登輝先生にお会いした。この二年間は人災政権だった」。

黄文雄氏「世の中は変わった。活字文化はネット文化に移りつつある。書いたものを出版できない場合が多い。ワックの鈴木隆一社長に感謝しなければならない。日中比較文明の本も出してくれた」。

小田村四郎氏が乾杯の音頭を行った。開宴後も、何人かの方が祝辞を述べられたが、残念ながらメモをとることができなかった。

            ○

黄文雄氏とは、長いお付き合いをさせていただいている。昭和四十年代前半、当時厚生年金会館で開かれていた『二・二八革命記念集会』でお目にかかったのが最初である。大変博識な方で、数え切れないほどの著書を出しておられる。金美齢さんが言ったように、台湾独立連盟の幹部の方は日本の大学の教授などになられた方が多いのに、黄文雄氏はなられなかった。しかし今日、評論家・学者として大活躍をされている。

今の日本に、哲人政治家と言われる人がいるだろうか。残念ながらペテン師はいても哲人は存在しない。李登輝氏は日本人以上に日本精神・日本的感覚を保持しておられる方である。

儒教では独裁者・皇帝の地位を失うということは、天命を失ったということであり、すなわち「賊」になるのだ。儒教国家韓国は、権力を失った大統領は、監獄に入れられるか、海外に逃亡するか、自殺する。

国民党政権は、陳水扁氏を獄に送り、最近は何と李登輝氏を起訴し、獄に送ろうとしている。如何にも支那人権力者のやりそうなことである。台湾も、国民党によって、韓国に似た国にならされようとしている。

馬英九は台北市長選挙の時、李登輝氏の応援を受けて当選したのに、李登輝氏に対してかかる仕打ちをするのだ。まさに恩を仇でかえす鬼畜の所業である。断じて許し難い。

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黄文雄氏

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安倍晋三氏

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田久保忠衛氏

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千駄木庵日乗九月五日

午前は、母のお世話。

午後は、原稿執筆の準備など。

午後六時半より、ホテルグランドヒル市ヶ谷にて、『黄文雄さん「哲人政治家李登輝の原点」出版記念会」開催。

帰途、学生時代来の同志と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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2011年9月 5日 (月)

この頃詠みし歌

カランカランとニコライの鐘の聞こえ来る昔と変わらぬお茶の水の駅

半世紀近き昔の三番町 木造校舎で『史記』を学べり(二松学舎の思ひ出)

赤きシャツ着て学校に行きしかば漢学の師にひどく叱らる

(同)

『土佐日記』を講ずる萩谷朴先生その面影は今も眼裏にあり(同)

をのこゆゑお化粧をすることはなし 人前にさらす顔はこの顔

政治家を辞めると言ひし元総理 として恥じずにゐる愚かさよ

自分こそペテン師なりとは思はぬか前言翻す元総理殿

四十年前若妻たりし人は今日 孫の手をひき摺れ違ひたり

一人して夕空仰げば今日といふ日は暮れてゆく我は生きゆく

苦しみの少しでも和らぐことをのみ祈りて今日も父に手をかざす

三日月がぼんやり浮かぶ空の下 歩み行きなばやすらぐ心

どぜうでもうなぎでも良い この国を良くしてくれることが第一

靖国に参拝せずと宣言す 嗚呼かくてこの内閣も亡国への道

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千駄木庵日乗九月四日

午前は、母のお世話。

午後は、『月刊日本』連載中の萬葉集講義原稿執筆。

この後、病院に赴き、父に付き添う。精神的にやや安定したようである。しかし病状は厳しい。

帰宅後も、原稿執筆・脱稿・送付。

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2011年9月 4日 (日)

『東京新聞フォーラム よみがえる古代の大和 卑弥呼の実像』における登壇者の発言

八月二十八日午後一時より、両国の江戸東京博物館にて開催された『東京新聞フォーラム よみがえる古代の大和 卑弥呼の実像』における登壇者の印象に残った発言は次の通り。

菅谷文則奈良県立橿原考古学研究所所長の基調講演「の皇帝は倭国王卑弥呼を冊封した。卑弥呼は生没年不明。狗奴国と交戦中に死亡。六十歳から八十歳代。『魏志倭人伝』では『鬼道につかえ、能く衆を惑わす。年すでに長大なるも、夫婿なく、男弟あり、たすけて国を治む。王となりしより以来、見る者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。---- 常に人あり、兵を持して守衛す』とあるのみで、倭人伝ではそれ以上のことはわからない。卑弥呼は宗教的能力に長けていた。古墳時代が三世紀から始まったのか、四世紀半ば頃から始まったのかが大事。弥生時代は西暦二百年末まで。西暦二百年代初めから古墳時代。北部九州には、初期古墳が無い。邪馬台国大和説の長所は、弥生時代の終了と古墳時代の始まりが具体的な古墳の変遷から見て取ることができること。短所は、漢からの輸入品が無いこと。『記紀』の皇統譜と邪馬台国を重ねると完全に重複する。新井白石は、皇統譜と合致する邪馬台国九州説をとった。倭国は高い鋳造技術を持っていて、大型の鏡を造っていた」。

シンポジウムにおける発言

武田佐知子大阪大学大学院文学研究科教授「卑弥呼の時代は男女とも貫頭衣を着ていた。埴輪の農夫像は貫頭衣の埴輪的表現。国家の権力体系に属さない人々は貫頭衣着用の文化だった。卑弥呼の衣服は推定するしかない。『魏志倭人伝』に記述なし。身分関係は衣服によって見た。女性の卑弥呼が立って世の中がおさまった。卑弥呼は自分の権威を確固たるものにするために中国に使いを送った。中国は儒教的価値観から女王を認めなかった。女性は士大夫になれなかった。中国は卑弥呼を女性と認識していなかったと思う。則天武后と呼んでも、則天皇帝とは呼ばなかった。『めんどりが時を告げると国が滅びる』という諺もある。弥生時代の以前の服飾は復元するのが困難。中国はベトナムが女帝を立てたので討伐した。推古天皇が、女性がスメラミコトになった最初。天皇・スメラミコトは『性』を超越した存在だったのではないか。それは衣服からも言える。大仏開眼の時、聖武天皇・孝謙天皇・光明皇后は同じ白い服を着た。孝謙天皇は男性用の冠をかぶった。」。

篠田正浩(映画監督)「天皇の『人間宣言』によってそれまでの歴史教育は否定された。戦前は『壬申の乱』も教えられなかった。銅鐸が沢山出雲から出て来た。鏡の文化の前に銅鐸の文化圏の前にあったのではないか。天皇は、戦後『人間宣言』をしたのだから、天皇陵を考古学研究のために発掘してもかまわない。そこから考古学が生まれる」。

菅谷文則奈良県立橿原考古学研究所所長「福知山に古墳が発見された。卑弥呼が中国に使いを派遣した年の鏡が出て来た。これで邪馬台国論は決着がついた。卑弥呼が女性であることは中国に確実に伝わっている。中国国内では女帝は認めなくても、外国の女帝は認めてもいいという考えだった」。

        ○

篠田正浩は、天皇御陵は人間の墓だからどんどん発掘してもかまわない。発掘しない限り日本の考古学は生まれないと言っているのだ。

しかし、普通一般の人の墓も、その尊厳性は保たれるべきである。他人が自由な発掘していいということはあり得ない。篠田自身の先祖の墓が他人に発掘されても文句を言わないというのか。馬鹿なことを言うものではない。

まして、歴代天皇の御陵は、神聖なる日本天皇の御神霊が鎮まりましているのである。その尊厳性・不可侵性は厳しく保たれるべきである。それと考古学の発達とは無関係である。

篠田は、「現御神信仰」を正しく理解していないし、亡くなった方の御霊そして墓所の尊厳性を正しく理解していないからから、このような暴言を吐くのだ。鬼畜の輩とはこういう人物のことを言うのである。

昭和天皇は、『昭和二十一年元旦の詔書』を発せられた後も、「現御神」の御自覚を正しく継承されていた。それは、御製を拝すれば明らかである。

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千駄木庵日乗九月三日

午前は、母のお世話。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事など。

この後、病院に赴き、父に付き添う。

帰宅後は、原稿執筆の準備・原稿執筆。

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2011年9月 3日 (土)

山岡国家公安委員長は野田内閣人事の最大の欠陥

特定失踪者問題調査会の荒木和博氏から頂いたメールには次のように書かれていた。

「誰が拉致担当大臣になるのかと思っていたら、山岡賢次氏とのこと。驚き、呆然としたというのが正直なところです。山岡議員はこれまで拉致問題に関わった話を聞いたこともありませんし、それ以前に関心がありそうにも思えない人物です。また、拉致問題以外のことでも民主党の他の議員を含め評価する声を聞いたことがありません。小沢グループを押さえ込むためにこのポストに当てたとでも考えるしか理由が思いつかない人事でした。

人事にはトップの姿勢が反映されますからこれもそういうことなのでしょう。あるいは野田総理は、『拉致問題を政府に任せては解決しない。国民が「自分たちでやらなければ」という意思を持つことが肝心だから、あえてこのような人事にした』という、高度な政治判断をしたのかもしれません。

いずれにしても、こちらとしてはやりやすくなったとも言えますが。」

            ○

野田総理のこの人事にはがっかりした。野田内閣は「泥にまみれて汗をかく」と言うが、山岡賢次が国家公安委員長になったことによって、泥は泥でも「汚泥まみれ」になった。これは駄目だ。

野田氏は小沢の圧力に屈したか、あるいは何としても小沢にすり寄りたいのであろう。

国家公安委員長とは、国家の治安維持の最高責任者である。警察に対して直接の指揮権限はないといわれるが、警察に相当の影響力を行使することができる。そういう重要な閣僚によりにもよって山岡を選ぶとは何事か。あんな薄汚い小沢一郎の手先に国の治安を担当させるべきではない。また山岡はマルチ商法の企業とも深いかかわりがあると報道されている。

小沢一郎もたった一回だけ閣僚になったことがある。中曽根内閣の国家公安委員長・自治大臣である。国家公安委員長というのは、警察官僚とのつながりができる。山岡を国家公安委員長にしたのは、小沢からの強い要請があったと推測する。

ともかく、この人事は野田内閣の最大の欠陥である。

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千駄木庵日乗九月二日

午前は、母のお世話。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

午後六時半より、春日の文京区民センターにて、「國體政治研究会」開催。小生が司会。中村信一郎代表幹事が事務報告。稲貴夫神社本庁参事・本宗奉賛部長が「エネルギー問題と日本文化」と題して講演。質疑応答。稲氏は、小生よりひと回り下の昭和四十四年生まれの亥年。明治大学工学部電気工学科を卒業した後、国学院大学神道学専攻科を修了されたるという異色の学歴の持ち主。父上が神職なので神職となられ、長く神社本庁で要職を歴任しておられる。原発問題と日本文化伝統について興味深いお話があった。終了後、懇親会。談論風発。

帰宅後は、諸雑務。

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2011年9月 2日 (金)

神々の恵みと祟りについて

今回の大地震と原発事故で、日本民族は文明史上・人類史上大きな問題を突き付けられた。「自然との共生」という言葉をよく聞くが、そんな生易しいものではないことを實感した。確かに人間は自然と共に生きて来たし、自然の恩恵をこうむっている。しかし、時に自然は人間に無慈悲に襲いかかって来る。これにどう向き合うのかが問題である。

             ◎

『神社新報』本年七月四日号の「大震災から神道信仰を考える」と題する社説に次のように書かれていた。

「岡田荘司氏(国學院大学)から…『神々の恵みに対応するたたりや怒りについて、古代以来の神道信仰にはその両面があったが、近代以降には継承されていない』旨の発言もあった…現代の神社神道のあり方やその原点を考へる上での極めて重大な神道信仰・神道神学に係る問題提起といへよう。」「『原子力の火』の成功に日本社会の未来を託した声は、その反対に原子力利用の『綱渡り的危険性』を指摘した声の紹介など、、それらは、いづれも神々や祖先、自然からの恵みと恩に感謝するだけでなく、同時にそれは神々や自然の祟りと怒りに対する畏怖と謹みといふ神道の原点を戦後神社神道の歩みに位置づけようとする本紙なりの実践神道神学の歴史でもあった」。

              

               ◎

自然神・祖靈神の崇拝が日本伝統信仰=神社神道の基本である。自然に宿る神霊、そして亡くなった方々の御霊は、我々生きている者たちに恵みを与え下さり、お護り下さる有りがたき御存在である。しかし、神代・古代以来、自然に宿る神々も、そしてこの世を去った御霊も、時に怒りを現し、祟ることがある。

日本人は、自然災害はまさに自然の神の怒りととらえて来た。御靈信仰も神社神道の大きな流れである。全国各地に鎮座する天満宮も、そり原初は、無念の思いを抱いて亡くなられ、多くの祟りを現された菅原道真公の御霊をお鎮めするための神社であった。

日本民族は、常に自然の恩恵に感謝すると共に、災害をもたらす自然に対して畏敬の念を抱いてきた。また、日本民族は、亡くなった方々に対して感謝の念を捧げると共に、尋常でない亡くなり方をした方の御霊に対して御慰めしなければならないという信仰を持っていた。

本居宣長は、日本に神々を「人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云うなり(すぐれたるとは、尊きこと善きこと功(いさを)しきことなどの、優れるたるのみを云に非ず、悪(あし)きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり…)(『古事記傳』)と定義してゐる。

日本の自然の神々は、今はやりの言葉で言へば、想定の範囲以上の激しい力を発揮する畏怖すべき生命であり靈であるということである。無限の可能性を持つと言い換えてもいい。その無限の可能性は、人間に恩恵をもたらすばかりではなく、時に災いを齎すと古代日本人は信じた。

無暗矢鱈に自然に恐怖心を抱いたり、亡くなった人の祟りを恐れたりするべきではないが、自然と祖霊に対する畏敬の念を持つことは大切である。つまり、今こそ、日本国民斉しく自然と祖霊への祭祀の心を回復すべきなのである。

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千駄木庵日乗九月一日

午前は、母のお世話。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事及び諸雑務。

この後、病院に赴き父に付き添う。

帰宅後は、資料の整理。

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2011年9月 1日 (木)

東京大空襲と言問橋

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上の写真は、江戸東京博物館の裏庭に展示されているものである。隅田川にかかっている言問橋の欄干と縁石である。

言問橋には悲惨な歴史が刻まれている。昭和二十年三月十日の「東京大空襲」の一大惨事である。戦火に追われた人々が、両岸の浅草・向島から「向こう岸へ行けば助かる」と信じて言問橋に殺到し、最終的には言問橋の上には、千人近い人々が橋上で折り重なった。米軍機はその上にまた焼夷弾を落とした。およそ二百メートルの橋の上は燃え上がり、橋の上は大火炎に包まれ、見渡す限り焼き殺された人たちで黒焦げの山になったという。

平成四年の橋の改修で、その一部がここに移された。

東京大空襲では十万人以上の婦女子老人を含む無辜の民が焼き殺された。まさに東京大虐殺である。私は、反米主義者ではないが、こうした歴史は忘却してはならないと思う。戦時中言われた「鬼畜米英」という言葉は決して大袈裟な言葉ではなかったし、嘘でもなかったと思うのは筆者一人ではあるまい。犠牲者の御冥福を心より祈るものである。

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とぜうは好きだがサッカーには興味がないことなど

野田次期総理(新総理にあらず)は、とぜうとサッカーが好きなようです。私は、どぜうは好物で良く食べます。タニシの塩茹で・イナゴの佃煮も好きです。ただサッカーは高校時代にやったことがありますが、みんなについていけないで困ったことがあります。だから興味が無いので困っています。

小沢一郎氏とその取り巻きの言う「挙党体制」とは、「小沢独裁体制」のことでありましょう。私は、小沢氏がいる限り、「党内融和」は無理と思います。

西岡参院議長は今日の挨拶で、菅内閣を痛烈に批判しました。言っていることは正論と思います。ともかくく前代未聞の参院議長であります。数ヶ月前、ある問題で西岡参院議長に質問書を提出しましたが、何と直接本人から、電話で回答がありました。私もこれまで政治家などに質問書を数多く提出して来ましたが、こういう経験は初めてでした。

輿石氏の初当選の時の挨拶がテレビで流れていましたが、「金で動く政治に終止符を打ちたい」と言っていました。その輿石氏が、金の問題で起訴され批判を浴びている小沢一郎氏の側近と言うのだから呆れ果てた話であります。

与謝野馨氏と田中真紀子氏の二人は、すっかり影が薄くなってしまいました。話題にもなりません。私は自業自得と思います。

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千駄木庵日乗八月三十一日

午前は、母のお世話。

昼は、知人と懇談。

午後は、諸雑務。

この後、病院に赴き、父に付き添う。体をさすってあげると、父は気持ち良さそうにしていた。

帰宅後は、資料の整理。

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