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2011年2月22日 (火)

論語の講義を聴いて

「おとなの寺子屋・論語の会」での東洋大学共生思想研究センターの野村英登氏(文学博士)の講義で印象に残った話を記す。

「『論語』に『顔淵、喟然(きぜん)として歎じて曰く、…これを膽(み)れば前にあり、忽焉(こつえん)として後(しり)えにあり。』(顔淵は嘆息して言った…孔子は、目の前にいるかと思えば、いつの間にか後ろにいる) という言葉がある。朱子学にも老荘思想が入り込んでいる。『忽焉』を、老子の『恍惚』という言葉を流用して解釈した。自分をいかに聖人に近づけるかが目的。自分の内面をどう変えていくかが問題。老子は、宇宙の真理は形をつかめず、言葉に表し難いと言う。道家と儒家の違いは、言葉によって思想を定義するか否か。朱子学は老子の影響を受けている。孔子をつかみどころのない偉大な人物だと言わせている。世捨て人・隠者に憧れる面もあった。朱子学も、自分が修行していく時、言葉に出来ないものがあると実感していた。『博文』とは、格物致知であり、物事を正しく極めること。『約礼』とは、克己復礼であり、己を律して礼に則ること。この二つが聖人に近付いていくために重要。この二つが合わさって正しい学問になる。自分から積極的に売り込んだり、自分を安売りするのは君子のすることではない」。

            ○

こうしたことは、実行は難しい。したがって、聖人になるのは本当に困難だ。しかしこういう教えは読まないより読んだ方が良いと思う。老荘思想と孔子孟子の思想とは相対立するというか、正反対の思想のように思ってきたが、実は、双方とも影響し合っているということのようである。支那人はこの二つの思想をうまく使い分けてきたということであろう。

日本人にも、世捨て人・隠者のような素振りを見せながら、実はなかなか権力欲・自己顕示欲の強い人もいる。それにしても、支那人に限らず人類は、古代より今日に至るまで、多くの哲人・聖人と言われる人々が、色々な教えを垂れてきたが、今日の世界は混迷を極めている。第一、人を救うはずの宗教が、対立・殺りくを繰り返していることは実に困ったことである。

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