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2011年1月29日 (土)

小沢一郎の昭和殉難者靖国神社合祀反対論を批判する

『週刊文春』今週号(二月三日号)に掲載されている「小沢一郎がすべてに答えた」というインタビュー記事で、小沢一郎氏は「戦後の懸案では、靖国神社のA級戦犯合祀については、いかがですか」という質問に答えて小沢氏は、「靖国神社は政治犯ではなくて、戦って亡くなった人を祀るところでしょう。…それなのに、厚生省の役人が政治責任を問われた人たちを入れてしまった。役人が入れてしまったのだから、政治家が責任を持って『靖国から外に出せ』と言えばいいだけの話ですよ」などととんでもない発言をした。

第一に、日本には「昭和殉難者」即ち戦勝国のよって理不尽に処刑された人はいても「A級戦犯」なるものは一人もいない。戦争行為の継続である「軍事裁判」で処刑された人々は、立派な戦死者である。靖国神社に祀られて当然である。否、真っ先に祀られるべき方々である。

第二に、戦死者の靖国神社合祀と戦争開始および戦争遂行についての「責任問題」とは全く別のことである。

第三に、「政治家が責任を持って『靖国から外に出せ』と言えばいいだけの話」などというのは政治権力による宗教への介入であり、完全に「憲法違反」である。小沢はこんなことも分からないのか。政治権力者何でもできると思っているのだ。まことに危険な政治家である。

小沢一郎氏は、昭和六一年四月二日に開かれた参議院地方行政委員會で自治大臣として次のように答弁した。

「靖國神社は一般的に常識的に言って戦没者を祭っておる、その追悼ということでだれもが自然な気持ちで行くべきものであろうと思います。したがって、私もいわゆる自分のそのような気持ちがわいてきたとき、そして時間が許せば靖國神社の参拝は今までもしておりましたし、するつもりであります」「基本的に、お國のために一生懸命、その是非は別といたしまして戦ってそれで亡くなった方でありますから、そういう戦没者に、参拝することによって誠の気持ちをあらわす、また自分なりにそれを考えるということであろうと思います。したがいまして、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではないだろうと思っております。たまたま敗戦ということによって戦勝國によって戦犯という形でなされた人もいる。あるいは責任の度合いによってABいろいろなランクをつけられたんでありましょうけれども、その責任論と私どもの素直な気持ちというのはこれは別個に分けて考えていいんではないだろうかというふうに思っております」

ほぼまともな考え方である。しかるに、小沢一郎は、最近はこの考え方と正反対の主張をしている。

靖國神社は、神話の世界の神々、歴史上の偉人・聖人君子が祀られている神社ではない。戦死者・英靈が祀られている神社である。戦死者には大東亜戦争遂行・敗戦に関して法的・道義的責任を負うべき人がいたかもしれない。また現實に責任を負って自決を図られた人もおられるし、従容として死地に赴かれた人もいる。東條英機元総理もそのお一人である。しかし、戦争責任と、戦死者を靖國神社の御祭神としてお祀りし慰靈することとは、全く無関係である。たとえ戦争責任があったとしても、戦争行為の継続である「極東軍事裁判」の「判決」により処刑された方々を殉難者・戦死者として靖國神社にお祀りするのは当然である。

東條英機氏等十四人の方々を「絞首刑」に処した戦勝國こそ「人道に対する罪」を犯したのである。同じ日本國民として東條氏を戦死者・殉難者として靖國神社に祀らねばならぬのである。それが日本人の道である。

小沢の最近の主張は、戰勝國が行った無法な「軍事裁判」即ち非人道的にして残虐無比な復讐を肯定する議論であり、亡くなった人々を慰靈するというわが國の傳統倫理を否定する議論である。

昭和二十八年、わが國政府は当時の國會決議を踏まえて戦勝國即ちかつての敵國の言う「戦争犯罪人」を戦死者と認定し、その遺族に「戦没者遺族等援護法及び恩給法」の適用を通達した。いわゆる「戦犯者」は戦没者であるというのは國家意思と言っても良い。今になって「戦犯」は戦死者ではないから靖國神社に祭るのは間違っているなどと言う小沢一郎のの主張はまさしく歴史への冒瀆である。

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