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2011年1月 9日 (日)

教育勅語と儒教

小室直樹氏の『日本国憲法の問題点』という本に、「教育勅語は儒教思想にあらず」との見出しで次のようなことが書かれている。

「(教育勅語が儒教思想ではないということは・注)勅語の中に『臣民』なる語が使われているからである。…(儒教思想では・注)臣と民とは別個のものであって、とうてい並列できるようなものではない。…『臣』と支配階級・高級官僚、『民』とは一般の庶民である。」「儒教とは民のための教えではない…支配階級の人々に倫理と行動規範を与えるための教えである。」

そして孔子の言う「君子」とは「立派な人」のことではなく「支配階級」のことであり、「小人」とは、「立派でない人」のことではなく「人民」のことであると書いている。

一君万民の日本國體とは、基本的に相容れない思想が「儒教」の徹底した身分差別思想なのである。しかし日本民族は儒教の説く「徳目」の一部は受け入れた。だから「君子」「小人」を読み替え、日本の伝統に合致させたのである。ここに、日本民族が大らかなる包容性と強靭なる国粋性が兼ね備えていることの証を見る。即ち、わが国は外来文化・思想を無批判に受け入れたのではないのである。

以下は『政治文化情報』昨年十月二十日号に書いた拙文の一部である。

「日本の儒教では『君子』とは、徳の高い人といふ意味として来た。しかし、支那における『君子』の原義は、朝廷の會議に参列できる貴族たちの総称であり、『身分の高い人』『支配者』『官僚』『貴族』といふ意味が原義である。その原義が延長して『貴族のふさわしい教養・品位』のことをさすようになったといふ。

一方、『君子』の対義語である『小人』とは、日本儒教では、教養道徳心に欠ける人間を意味する。しかし、支那における『小人』の原義は単にの低い人間、被支配者のことであるといふ。

『春秋左氏(孔子の編纂と傳へられる歴史書) 桓公十年に、『小人罪なし、玉を抱きて罪あり』といふ言葉がある。『小人であっても最初から罪を犯すものではなく、分不相応な宝を持ったり位についたりすると、ついふらふらと魔がさして悪い事をして罪を犯すようになるものだ』といふほどの意味である。

これは身分差別思想であり、一君萬民のわが國體とは相容れない。だからわが國においては『君子』『小人』の意味を読み変へたのである。儒教は、『君子』即ち貴族・官僚の身分道徳であった。貴族・官僚が政治と生活において民衆の規範になるように人格を磨き、倫理・礼節を守るといふ基本観念はあった。しかし基本的には巨大帝國を管理支配する思想であり、体制維持のために必要とされた思想であった。」

今日の共産支那においては、「君子」とは共産党員であり、「小人」とは人民である。共産党員が権力者・支配者として人民の上に立つことが当たり前のこととされるのは、儒教と共産主義独裁思想が相似であるからである。

私はさらに次のように書いた。

「支那の『共産革命』も為政者が変わっただけである。清朝そして國民党政権の後を継いだ毛沢東といふ皇帝及びその配下の官僚による独裁専制政治体制が現出した。二代目の皇帝が鄧小平である。『中國共産党による一党独裁政治』は、古代支那以来の専制政治の継承である。中國共産党員による行政機構・企業幹部の独占は、支那古代以来の『君子』による『小人』支配の継承である。改革開放によって豊かになったと言っても、『中國人民』全体が豊かになったのではなく、現代における『君子』=『中國共産党員』だけであると言っては言ひ過ぎであらうか。」

われわれ日本人は、「中国から素晴らしい儒教を学んだ」などと劣等意識を持つ必要はさらさらないのである。

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