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2011年1月10日 (月)

大給坂のことなど

私の住む文京区には坂が多い。私の住む街は昔、駒込坂下町と言っていた。団子坂・大給坂・狸坂という三つの坂の下にある街である。

私は、大給坂の下で育った。この坂の上に大給家という大名屋敷があった。大給氏は、戦国時代に三河国(愛知県)加茂郡大給を本拠とした豪族で、後に徳川家康に仕え、明和元年(1764)三河西尾に移封された一族である。明治以後子爵になった。詳しくは分らないが、大給松平氏は、徳川家康の本家筋に当たる家系で、江戸時代は譜代大名で、歴代の藩主は、老中・大阪城代・寺社奉行などを務めた。最後の藩主・大給恒は、幕府の老中・陸軍総裁をしていたが、戊辰戦争ではいち早く官軍についたので、明治以後も顕職につくことができ、賞勲局総裁・枢密顧問官などを務めた。大給恒

戦後になってからだと思うが、華族は生活が厳しくなり、屋敷の半分以上を三木証券の社長に売った。その三木証券社長の令嬢が大平正芳氏と結婚したので、大平氏がその屋敷に住んでいた。大平氏が官房長官をしていた頃までそこにいたが、のちに世田谷に引っ越した。私が小学校や中学校に登校する時、政治家たちが大平邸を訪ねてくるのに良く出っくわした。

春日一幸氏が車に乗って来たのには驚いた記憶がある。

その坂の上の道を真っすぐ行くと、今度は、宮本顕治・百合子夫妻が住んでいる屋敷があった。宮本百合子の実家の中条家の屋敷である。中条家はなかなかの資産家であった。火炎ビン闘争の頃に宮本顕治はその家で、原稿などを書いていたという。

さらにそのはす向かいが、何と内務省警保局の官舎であった。戦後は、警察庁の官舎になった。取り締まる方と取り締まられる方が向い合せに住んでいたのである。だから、小中学校の同級生には警察庁のキャリア官僚の子供さんたちがいた。大津君・増井君・平井さん・守屋さんなどという子たちであった。近くに駒込警察署長官舎があるのだが、署長官公舎の方がキャリア官僚の住んでいた官舎よりずっと立派だった。

さらに、宮本顕治夫妻の家の隣が高村光太郎・千恵子夫妻の家であった。また安田財閥の一族の屋敷もあった。これは今も昔のままに残されている。

大給坂の上は、お屋敷町で、大給坂の下は庶民の住む町。山の手とは坂の上のこと、下町とは坂の下のことを言う。私の育った家は典型的な下町にあった。

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