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2010年12月13日 (月)

『日本美術院の画家たち』を参観して

今日参観した『日本美術院の画家たち-横山大観から平山郁夫まで-』は、「岡倉天心(てんしん)により、1898(明治31)年に在野の美術団体として創設された日本美術院は、茨城県五浦(いづら)への移転の低迷期を経て、天心の一周忌にあたる1914(大正3)年9月に大観、下村観山(しもむらかんざん)らによって再興されます。彼らは、古典研究の上に絵画の新生面を開いていこうとする天心の遺志を受け継ぎ、個性を尊重した自由な制作に取り組みました。伝統絵画を学ぶ一方、ヨーロッパ絵画や東洋画から多くを吸収し、柔軟な発想と新鮮な感覚でそれぞれが独自の画風を創出していきます。特に当館所蔵作品の中心である大正から昭和にかけての日本美術院は、多くの気鋭の画家を輩出した黄金期といえましょう。…個性溢れる作品と共に近代日本画発展の足跡をたどります。」(案内書)との趣旨で開催された。

横山大観《作右衛門の家》、《月出皎兮(つきいでてこうたり)》、《春の水・秋の色》小林古径《清姫》、安田靫彦《平泉の義経》、前田青邨《腑分》、堅山南風《彩鯉》奥村土牛《鳴門》、小茂田青樹《丘に沿える道》、富取風堂《もみぢづくし》速水御舟《翠苔緑芝》、小倉遊亀《舞う》、岩橋英遠《暎》、吉田善彦《尾瀬三趣》、守屋多々志《聴花・式子内親王》平山郁夫《バビロン王城》などを見る。

どれも圧倒されるような見事な作品ばかりであった。特に、速水御舟《翠苔緑芝》は、色彩が美しかった。小倉遊亀《舞う》は、女性がよくこれほどの大きな絵を二つも描くことができた感心した。小倉遊亀さんは、小生の文芸上の師である中河与一氏夫人の故中河幹子先生(歌人)と奈良女子高等師範(現・奈良女子大学)で同級生であった。奥村土牛の《鳴門》は、父の故郷の徳島を訪ねた時に見た鳴門のうず潮が描かれていた。

日本美術院は明治三一年、岡倉天心が校長をしていた東京美術学校から追放されたた後、天心が中心になって「本邦美術の特性に基づきその維持発展を図る」ことを目的として創設された民間美術団体である。小生が住んでいる千駄木の隣町である谷中に建てられた。その地は現在、岡倉天心記念公園となっている。園内の六角堂には、平櫛田中作の天心坐像が安置されている。


また、『日本美術院院歌』天心作詞の院歌を、横山大観が碑にして建てている。その碑には


「谷中うぐいす初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい 奇骨侠骨開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい 録天心先生作日本美術院院歌大観」 

と刻まれている。とても美術学校との校歌とは思えない勇ましくも雄々しい歌詞である。「初音」とは、当時の町名の「谷中初音町」と鶯の鳴声をかけたもの。命懸けで志を貫徹するという強い意志を示した歌である。この時、岡倉天心は数え年三七歳、横山大観は三一歳であったという。民族運動の大先輩・北上清五郎先生が小生の出版記念会でこの詞を吟じて下さった。

大正二年九月二日に天心が逝去し、翌年の一周忌に大観等によって日本美術院が再興された。その再興の綱領には「芸術の自由研究を主とす。故に教師なし先輩あり。教習なし研究あり」と宣言するものであった。

岡倉天心や横山大観は烈烈たる気迫の持ち主であった。天心は「東洋の理想」「日本の目覚め」などの著作で日本精神を表現し、大観は霊峰富士を描いた絵画などで日本精神を表現した。その精神を受け継ぐ絵画を今日は鑑賞することができた。

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