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2010年12月17日 (金)

「萬葉集」の掉尾を飾るに相応しい家持の歌

本日の「萬葉會」において、「萬葉集」の掉尾を飾るに相応しい家持の歌を講義した。

 大伴家持は、日本の国の国柄の素晴らしさを後世に伝えなければいけないという使命感を持って、「萬葉集」の編纂に関わり、自らも歌を数多く詠んだのである。「萬葉集」は平穏無事の時代に編纂されたのではない。大化改新・壬申の乱などという大変革・大建設の時代に、日本の国の理想・國體の本姿を語り伝へるために「萬葉集」は編纂された。

 しかし、支那と比較すればわが国は平穏に歴史を経過して来た。支那は「易姓革命」といって、王室の姓が変わる革命が繰り返された。「易姓革命」とは、儒教の政治思想の一つで、天子は天命により天下を治めてゐるのであって、天子に不徳の者が出れば、天命は別の有徳の者に移り、王朝が交代するといふ思想である。わが国の天皇統治の道統には一切さういふ思想はない。天皇その方が天の神の地上における御代理・御顕現であり、現御神(うつし身として現れられた神)である。天皇の御意志そのものが天命なのである。一系の天子が永遠にわが国を治められるのである。だから支那のやうな王朝の交代とそれに伴ふ国家の分裂や興亡は起こらなかったのである。      

 三年春正月、因幡國の廳(まつりごとどころ)に、国郡の司等に饗(あ へ)を賜へる宴の歌一首

                      

                

新しき年の始の初春の今日ふる雪のいや重(し)け吉事(よごと)

                (四五一六)          

 大伴家持が四十二歳の時の賀歌(お祝いの歌)で、「萬葉集」最後の歌である。天平宝字三年(七五九)の正月(太陽暦では二月二日)、因幡の國(鳥取県東部)の國廳(行政を扱う役所)で、因幡守(今日の県知事)であった家持が、恒例により郡長などの部下に正月の宴を与へた時に詠んだ歌。

 「いや重け吉事」の「重け」はあとからあとから絶える事なく続くこと。「新しい年のはじめの初春の今日降る雪の積もるやうに良きことが積もれよ」といふほどの意。

 元旦に雪が降るのは瑞兆で、その年は豊作であるといはれてゐた。しんしんと雪が降り積もるやうにめでたきことも重なれよといふ願望を歌った。雪の降る眼前の光景を見て歌った平明で清潔で堂々たる「萬葉集」の掉尾を飾るに最も相応しい名歌である。

 人麻呂の時代即ち初期萬葉の時代は、壬申の乱などがあったが、それでも神ながらなる日本を讃える歌を歌った。しかし、家持の時代になると、仏教しかも悪い意味の祈信仰が浸透し、藤原仲麻呂の専横・僧道鏡の出現など日本国の本来の大らかさ・明るさ・さやけさ・清らかさが隠蔽されつつあった。

 家持と同族であった大伴古慈悲とか大伴古麻呂という人たちは、橘奈良麻呂と一緒に、称徳天皇の寵を得て専横をきはめてゐた藤原仲麻呂打倒のクーデターに関ってみんな粛清されてしまった。そして直接クーデター計画に関わらなかった家持も因幡國に左遷されたのである。家持は後に、都に戻る。

 しかし、家持は、年の初めにかういふめでたい歌を詠んだ。「言事不二」という言葉がある。「言葉と事実と一致する、言葉と事実は二つではない一つである」「言葉に出したことは実現する」といふ意味である。聖書にも「言葉は神なりき。よろずものこれによりて成る」と書かれてゐる。家持が、「いや重け吉事」と歌ったのは、めでたい言葉を発することによって吉事が本当に事実として実現すると信じたのである。

 そして、「萬葉集」の最後の歌にこれを収め、一大歌集の締めくくりにしたところに、なにがしかの意味があると考えるべきである。国が混乱し、世の有様は悲痛であり慟哭すべきものであっても、また自分の一族が危機に瀕してゐても、否、だからこそ、天皇国日本の国の伝統を愛し讃へ、日本の国の永遠の栄えと安泰を祈る心の表白であらう。

 また、「萬葉集」編者(家持自身かもしれない)は、祝言性豊かなこの歌を全巻の最後に置き、「萬葉集」を万世の後まで伝えやうとする志を込めたといはれてゐる。我々は「萬葉集」という名称に、無限の力と祈りとを実感するのである。

 ともかくこの歌は、わが国の数多い和歌の中でもとりわけて尊くも意義深い歌である。

 この歌は、淳仁天皇が御即位された翌年の正月に詠まれた歌で、「萬葉集」の歌で最も作歌年代の新しい歌である。また家持の歌としてもこの歌が年代が最も新しい。この歌の後に家持が詠んだ歌は「萬葉集」に収録されてゐない。ということは、因幡國から都に戻った家持は、藤原仲麻呂打倒計画にまたまた巻き込まれ、今度は薩摩守に左遷されるが、再び都に戻り、参議兼東宮大夫、東北鎮撫の総帥持節征東将軍などを歴任し、延暦四年(七八五)、六十四歳でこの世を去ってゐる。

 したがって、この歌を詠んだ四十六歳から亡くなる六十四歳までの長い期間、家持が全く歌を詠まなかったということは考へられない。どうして歌が残ってゐないのかが不思議である。

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