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2010年12月10日 (金)

神社神道と日本近代

鎌倉にて、葦津康國・伊波新之助・木村三浩三氏と懇談した際、近代以後の神社神道のことが話題となった。「国家神道」と言われる体制が敷かれ、神社が内務省神社局の管理下に置かれ、神職は公務員になった。「神社神道は宗教にあらず儀礼である」ということとなり、信仰精神が形骸化された。御託宣とか神がかりは否定された。神社は専ら儀礼としての祭祀のみを行い、神道精神に基づく宗教的救済活動も行わなくなった。宗教的救済活動は、天理教・金光教・黒住教・大本教・生長の家などの教派神道が行うようになった。

                         ◎

葦津珍彦先生は、

「明治維新に際して「祭政一致」「神仏分離」「大教宣布」の国策決定に大きな働きをした玉松操などをはじめとする主要人物や活動家は、明治3年には早くも政府中枢と対決を生じて、その後10年のうちに追放され、刑死され、戦没するなどして、いわゆる神道勢力全般は「残党なお亡びず」といった悲惨な状態になってしまっていた。」

「神社局の消極主義は、無精神、脱イデオロギー、ことなかれ主義とも言いかえる事ができ、神宮神社を著名な天皇、皇族、または国家、郷土に功労のあった人々を崇敬するためのモニュメントとして、神霊を祀る神道独自の精神を著しく否定するものだった。神社局長のポストが任官待ちのポストで祝詞も古典も知らないような官吏が腰かけにするようなものであったところをみても、いかに当時の政府が神道に何の期待もしていなかったかがわかる。」(「武士道、天皇、国家神道」)

「神社は宗教に非ず」との政府の公式見解は、古来の日本人の神道信仰心理を抹消しようとした。…内務省の公式見解は、議会、とくに衆議院の建議者たちとは異なって、非宗教といふことを、きはめて世俗の常識合理主義の意味での国家精神(国民道徳)以上のなにものでもないとの意味に解することになった。その解釈を要約すると、神社とは、日本帝国の天皇、皇族または、国家社会に特に功績のあった人格者に対して、伝統的な礼法をもって表敬すべき場所であるといふことである。神主は、国家的記念堂(メモリアル・ホール)の儀礼的執行者であり管理人であって、特殊格別の宗教信仰心や思想を持つものではない。忠良な臣民としては、仏教、儒教、キリスト者と同一の国民精神を持つべきで、神道といふ特殊の宗教や思想の対立的独自の立場があるべきではないといふのである。」(「国家神道とは何だったのか」)と論じておられる。

            ◎

明治維新当初は、祭政一致の古代国家再生が実行されようとしたが、それは文明開化路線とは相容れずかつまた仏教教団の反対にあって頓挫してしまった。神道はむしろ形骸化されたというべきである。

仏教を尊崇した徳川幕府打倒の戦いであった維新の後、明治初期に「神仏分離令」が出され、廃仏毀釈が行なわれたのは徳川幕藩体制下で、神道・神社が仏教から圧迫され制約を受けていたからである。その反動である。

祭政一致の國體は隠蔽され、神社は宗教ではないとされた。ただ、国民道徳上の儀礼ということになった。「神」も遺徳ある先人と言う事であり宗教上の神ではない。神社神道によって仏教などが圧迫され布教の自由・信教の自由を脅かされたなどと言うことはなかった。むしろ神社神道がその宗教性を剥奪されたと言って良い。

第二維新すなわち明治維新の理想貫徹をめざした人々=神風連は勿論西郷隆盛や江藤新平らは、大体神道を重んじ、キリスト教や仏教には批判的であったが、そういう勢力が抹殺されてしまった。

近代日本の政府は「神道は宗教ではなく神職は宗教家ではないから宗教活動をするべきではない」というのが基本方針であった。神道が国教だったなどというのはまったくの幻想である。

昭和維新運動における根本思想は神道であり、しかもそれは官製の国家神道ではなく、大本などの神道思想であった。大本弾圧後大本にとって代わって登場したのが生長の家である。戦前における出口王仁三郎氏と内田良平氏とのつながり、戦後における谷口雅春氏と影山正治氏のつながりはそれを証明している。

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