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2010年9月28日 (火)

わが日本は共産支那の悪弊の本を抜き源を塞ぐべし

「おとなの寺子屋・論語の会」における野村英登氏の講義で印象に残ったことを記す。

「安岡正篤氏はその著『古典を読む』において『末世になるほど生活が煩瑣になって、することなすこと枝葉末節に走り易い。(王陽明は)抜本塞源論を立てて、あらゆる悪弊の本を抜き源を塞がねば、世は到底救われるものではない。』と論じた。『抜本塞源論』には王陽明の中核的思想が書かれている。

性善説の基盤は、人は『天地万物一体の仁』を具えていると考える。これが陽明学の中核。個人的欲望でそれが汚され本来の善なるものが発現できない。大いなる道の心=天地万物一体の仁を失わなければ、人の道はしっかりとしたものになる。何かを学ぶというのもそのためなのだ。

道心を把握して人倫を厚くすることが教え・学問の根本である。自然にこれを安んずる者を『聖』と言い、勉強してこれを行うものを『賢』と言う。本来持っている徳に磨きをかけ、それぞれの持ち分を発揮する。その意味で職業に貴賎は無い。

上に立つ者が覇を唱えるようになり『天地万物一体の仁』を忘れると世の中が乱れる。そして王陽明は訓詁注釈の学問は世の中を変えることにはならないと朱子学を批判した。陽明学は『礼』を重視せず、『天地万物一体の仁』の心さえ発揮すればいいという考え。『論語』は『礼』を重視し、朱子學も『礼』を重視する。『礼』即ち社会的規範を考えて自分の良心を発揮しなければ世の中を乱すことになるという考え。

天と親から与えられた身体を大切にするのは人の義務であり使命であるという考えが、『身体(しんたい)髪膚(はっぷ)これを父母(ふぼ)に受くあえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり』という『孝経』の言葉

『論語・泰伯第八』に『子曰く、泰伯はそれ至徳と謂うべきのみ。三たび天下をもって譲り、民、得て称するなし。』(泰伯こそ最高の徳の持ち主と言って良いだろう。天下を三度も兄弟に譲られたが、国民はどういうことか分からなかったので誉め讃えようがなかった)とある。孔子は目に見えない徳を持っていた泰伯を高く評価した。」

          ○

出席者の多くから、「このような『陽明学』『論語』の教えを今の中国人は全く実践出来ていない。」という意見が出された。野村英登氏は、「今の中国の小中学校の教科書には、『論語』の章句が掲載されている。民衆が革命を起こさないようにするためと思われる。」と語った。

「文化大革命」の時、文革派によって儒教は徹底的に排撃され、実権派に対して造反せよと扇動した。また林彪・周恩来批判の時には「批林批孔」運動というのが起こされた。ところが今や、儒教教育がある程度行われているという。これは民衆の体制批判を抑え込むためである。『孟子』や『陽明学』は、革命肯定の思想であるが、『論語』は礼=社会秩序を重んじる思想だからである。良い事がたくさん書かれているが、要するに体制維持のための思想・支配者のための思想であることは間違いない。

共産支那のわが国への暴虐行為を見ていると、今の支那は『礼』も『徳』も『天地万物一体の仁』も全く忘却してしまっている。だから支那国内は乱れているのだ。わが日本は、共産支那の「悪弊の本を抜き源を塞がねば」ならない。

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