« 千駄木庵日乗七月十九日 | トップページ | 千駄木庵日乗七月二十日 »

2010年7月20日 (火)

明治維新と坂本龍馬

NHKの大河ドラマで坂本龍馬が主人公になっている。徳川慶喜が行った「大政奉還」は、土佐藩主・山内容堂(豊信)の建白によるものである。そしてその「建白書」は、慶応三年六月に長崎から京都へ向かう航海の途中、坂本龍馬が後藤象二郎(土佐藩士)に授けた有名な『船中八策』(新政府綱領八策)を手直ししたものである。

その内容は、「一、天下の大政を議する全権は朝廷にあり。乃我皇国の制度法則、一切万機、必ず京都の議政所より出づべし。一、議政所上下を分ち、議事官は上公卿より下陪臣・庶民に至る迄、正明純良の士を撰挙すべし」などと書かれてあった。そして、征夷大将軍が自発的に政権を朝廷に奉還し、徳川将軍は諸侯と同列に下り、合議を尽くすため新設する列藩会議の議長を慶喜が務める、というものであった。土佐藩としては、徳川家の政権参与を維持を図っている幕府側と倒幕を目指す薩摩・長州との妥協を計ったのである。

そして、同年、十月十三日、京都にいた五十四藩の重臣を京都二条城に召集し、意見を聞いた上で、同十四日「大政奉還」の上書を奉呈し、翌十五日勅許された。「大政奉還」は、明治維新断行後の政体変革とは比較にならない不徹底なものであるが、それでも、「天下の大政を議する全権は朝廷にあり」と書かれてあるように、天皇中心帰一の我が国の本来的な國體を明確にしている。また、議会政治形態を志向している。この二点において、徳川幕藩体制の根本的変革であったことは間違いない。    

ただ、今すぐ大政を朝廷に奉還するとは言っても、朝廷側にはこれを受け入れる態勢はなかった。慶應三年十一月十七日の朝廷より征夷大将軍及び諸侯に対して下された大政改革の諮問に「政権の儀、武家へ御委任以来数百年。朝廷に於て廃絶の旧典、即今行き届かせられ難き儀は十目の視る所に候。…」と書かれてある通りである。これがまた慶喜の狙い目だったという説もある。たとえ徳川氏が朝廷に「大政奉還」をしても、朝廷には実際の政治を司る能力がないのだから、自然に徳川将軍家・幕府が政治権力行使を継続する以外にないと踏んでいたという説である。実際に徳川慶喜は、側近の西周などに「大政奉還」後の具体的な政権構想を立てさせていたという。

しかし、事態は徳川将軍家にとってそう甘いものではなかった。薩摩・長州そして岩倉具視等倒幕派の公卿たちは、「何としても徳川幕藩体制を打倒せずんば非ず」という強固な意志を持っていた。   

徳川慶喜が「大政奉還」の上書を朝廷に提出したその日(慶應三年十月十四日)に、倒幕の密勅が下されていた。また、十一月十五日、坂本龍馬・中岡慎太郎が京都近江屋で刺客に襲われ、暗殺された。暗殺したのは、最近まで幕府方の見廻り組・佐々木只三郎だとされていたが、最近薩摩による暗殺という説が出て来ている。坂本龍馬は「大政奉還」の下敷きとなった「船中八策」を起草した人物であり、かつ、徳川慶喜を尊敬し、さらに徳川氏を討伐するという意見には組みしていなかった。そこで坂本が邪魔な存在となった薩摩藩が彼を暗殺したというのである。

明治維新史にはまだまだ謎が多い。

|

« 千駄木庵日乗七月十九日 | トップページ | 千駄木庵日乗七月二十日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/48921692

この記事へのトラックバック一覧です: 明治維新と坂本龍馬:

« 千駄木庵日乗七月十九日 | トップページ | 千駄木庵日乗七月二十日 »