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2010年6月22日 (火)

『怪力乱神を語らず』とは

「おとなの寺子屋・論語の會」において、東洋大学共生思想研究センターの野村英登氏(文学博士)は次のように語った。

「『疏食を飯い、水を飲み、肱を曲げて之を枕とす。楽しみ亦その中に在り、不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。』これは、貧乏が素晴らしいと説いているのではない。清貧が良いのだというのでもない。お金が無い方が良いというのは老荘の思想。お金さえつかんでいれば良いかというと、そうではないよ、ということを言っている。

子怪・力・乱・神を語らず』。孔子は、目に見えない世界についてあえて語らなかった。神の存在は否定しない。怪⇔常、力⇔徳、乱⇔治、神⇔人。乱を語ったのは、『水滸伝』『三国志』『西遊記』。これらは古代中国で評価されなかったが、多くの人が読んでいた。どんなに立派なこと考えていても、二十四時間立派なことを考えているわけではない。『論語』や『孟子』だけ読んでいたわけではない。しかし、そうした小説でも、仁義という儒教的価値を大切にする思想が説かれた。

中国や台湾には『功過格』という儒仏道の教義に基づいた格(道徳規準)に照らして、自己の行為を採点し、功(善行)と過(罪悪)とに分類して表にする書物がある。善い事と悪い事とあらわす成績表。その基準は儒教的倫理観。

日本の『こっくりさん』(註・机に乗せた人の手がひとりでに動く現象による占いの一種)に近い『扶乩』(ふけい・フーチ)という占いがある。明清時代の知識人は皆やっていた。立派だった人は天界に行って仙人になっているので下界に下りて来てくれると信じた。孔子・孟子・キリストは下りてくるという。大川隆法のやっていることもオーソドックスな道教。國共内戦の時、共産党に殺された人が出て来た。死者に言葉を語らせて、仲間の団結を図った。

義和団(清朝末期の排外運動)は『西遊記』の神様を自分の体に下ろして毛唐が来ても負けないと信じて戦った。道教では、陽の世界にいる目に見えぬ存在が『神』。陰の世界にいる目に見えない存在が『鬼』」。

        ○

儒教とくに孔子の教えは、きわめて合理的であり、現世的である。しかし、実際には、人間は非合理の世界・神秘の世界に憧れる。信仰の力は強い。目に見えぬ存在を信じるのは良いことだが、それがおかしな方向に行くと、人間生活を破壊する。今日唯今の日本でも、おかしな信仰に絡んだ陰惨な事件が起こっている。『さわらぬ神に祟りなし』という言葉が生まれたのも、そういうことを警戒してのことであろう。孔子が『怪力乱神を語らず』と言ったのも故あることである。あまり安易に、そして狂的に『目に見えぬ存在』によりかかるのはやはり慎むべきであろう。

私は、「敬神崇祖」という日本傳統信仰の基本の道を歩むことが、最も大切であると信じる。天地の神々そして先祖への報恩感謝が人間生活の基本であり、日本人の道である。

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