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2010年6月18日 (金)

歴史について思ったこと

『萬葉會』の帰途、懇談した三人の方々のうち、お二方が越前国(福井)出身であった。歴史問題などを語り合った。

越前は明治維新において、松平春嶽・由利公正・橋本左内等の功労者がいた。しかし、維新後、薩長土肥と比較して明治新政権で重きをなすことはなかった。越前ばかりでなく、水戸藩も、尾張藩も、明治維新に貢献したのだが、中枢からは外された。やはり徳川氏一門であったためであろう。水戸藩は最も気の毒で、尊皇攘夷思想を鼓吹した水戸學は、維新断行の中心思想であったにもかかわらず、朝敵とされた最後の征夷大将軍・徳川慶喜が水戸出身であったこと、天狗党の乱など内紛が多かったことなどで、維新後、政府の主導権を握ることができなかった。

官軍が東北に進軍して行った際、薩摩軍が日光東照宮焼き討ちを主張したが、土佐の板垣退助が「東照宮には、後水尾天皇の勅額がある」と言って反対したと伝えられる。土佐藩祖・山内一豊が徳川家康から恩顧をこうむったことが影響しているのかも知れない。

江戸の町づくり、そして各藩の配置などを見ると、徳川家康・秀忠そして幕閣がいかに周到に計画したかが分かる。伊達が江戸に攻めてくることを防ぐために、仙台と江戸の間の水戸・会津・白河に御三家の一つと親藩大名を配置した。また加賀前田藩の動きを封じるために、越前に家康の長男・結城秀康を置き、彦根に井伊家を置いた。江戸においても前田藩邸のすぐ隣に、徳川四天王・徳川三傑の一人・榊原家の藩邸を置いた。また江戸城の周囲は御三家か親藩の大名屋敷で囲んだ。

福井松平藩のことで思い出すのは、もう二十年くらい前のことであるが、靖国神社のことで半蔵門の東条会館から日比谷公園までデモを行った時、私の隣を品の良い長身の老紳士が歩いていた。名刺交換をさせていただいたのだか、何と当時靖国神社宮司をされていた松平永芳先生(松平春嶽公の孫)であった。江戸時代に、私のような庶民が、徳川親藩大名しかも御家門筆頭の殿さまと並んで江戸城の横を歩くなどということは絶対にあり得ないことだろうと感慨にふけった思い出がある。

福井は、戦災に遭ったうえに、戦争直後震災にも見舞われた。しかしそのためかどうかは分からないが、いわゆる飛島・鹿島・熊谷組という大手ゼネコンの発祥の地は福井県である。今日、北陸地方や山陰地方は、『裏日本』などと言われているが、支那や朝鮮との交流が盛んであった萬葉時代は今日で言うところの『表日本』だったというとになる。福井県は、現在でも、児童生徒の平均学力が全国第一位か二位であるという。

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