« 千駄木庵日乗六月十八日 | トップページ | 千駄木庵日乗六月十九日 »

2010年6月19日 (土)

菅直人氏に命懸けで破壊と建設を行う決意があるのか

菅直人総理は、自分の内閣を「奇兵隊内閣」と称し、「破壊と建設を同時に行う」と言った。奇兵隊は文久三年(1863)の下関戦争の後吉田松陰門下の高杉晋作らによって組織された戦闘部隊である。

安政五年(一八五八)六月十五日、井伊幕閣幕が勅許を得ずして「日米修好通商条約」を締結したことを知った吉田松陰は激怒した。同年七月十三日、松陰が長州藩主に提出した意見書『大義を議す』において「墨夷(注・アメリカ)の謀は、神州の患たること必せり。…ここを以て天子震怒し、勅を下して墨使を断ちたまふ。是れ幕府宜しく蹜蹙(注・恐れ縮こまる)遵奉之れ暇あらざるべし。今は則ち然らず。傲然自得、以て墨夷に諂事(注・へつらふこと)して天下の至計と為し、国患を思はず、国辱を顧みず、而して天勅を奉ぜず、是れ征夷の罪にして、天地も容れず、神人皆憤る。これを大義に準じて、討滅誅戮して可なり。少しも許すべからざるなり。」「征夷は天下の賊なり。今を措きて討たざれば、天下万世其れ吾れを何とか謂はん。」と主張した。

まことに上御一人日本天皇の勅を蔑ろにしてアメリカに諂った徳川幕閣を、天人共に許さざる存在であり、天下の賊なりと断定した激烈な文章である。松陰は、日本國體を護り、国家の独立を守るために、徳川幕閣に天誅を加えねばならないと決意した。京都に上り、朝廷に圧力をかけ、朝議の操作を成さんとし、また、京都所司代・酒井忠義に命じて尊攘の公卿や志士たちを弾圧捕縛した老中・間部詮勝(まなべあきかつ・越前国鯖江藩第七代藩主)誅殺を企てた。かうしたことが、長州藩政府の咎めるところとなり、野山の獄に入れられた。

松陰は、囹圄の身になっても、倒幕の志を変えることはなく、ますます燃え盛った。松陰は、同年四月七日、野山の獄から北山安世に宛てた手紙に「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羇縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。…今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望外なし」と書いた。幕府も諸藩も頼むに足らず、全国の在野の同志が決起して外国からの脅威を撃ち祓ふ以外に道はないと主張したのである。

翌安政六年五月、松陰は幕府の命により江戸に送られた。出発直前の五月十八日、松陰に代って松下村塾の教育に当たる事となった小田村伊之助(後の楫取素彦)に宛てた手紙に記された言葉が「至誠にして動かざる者未だ之あらざなり。…願はくは身を以て之を験さん。乃ち死生の大事の如きは、姑くこれを置く」である。

菅直人氏に、この吉田松陰のような、尊皇攘夷の志があるのか。本当に命懸けで「破壊と建設」を行う決意があるのか。厳しく監視したい。

|

« 千駄木庵日乗六月十八日 | トップページ | 千駄木庵日乗六月十九日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/48665144

この記事へのトラックバック一覧です: 菅直人氏に命懸けで破壊と建設を行う決意があるのか:

« 千駄木庵日乗六月十八日 | トップページ | 千駄木庵日乗六月十九日 »