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2010年5月 5日 (水)

明治維新と徳川幕府

『江戸を開いた天下人・徳川家康の遺愛品』展は、「三井家が300年以上拠点とした江戸城のお膝元である日本橋にちなみ、江戸を開いた天下人徳川家康を紹介する展覧会です。特に徳川家康の文化面に焦点を合わせ、武器・武具をはじめ書画、茶道具、文具、調度品など徳川家康が日ごろ愛用していた遺愛品を中心に紹介し、家康の幅広い教養と趣味、科学的で世界的な視野をもった文化人であった横顔に迫ります。」(案内書)との趣旨で開催された。

「重要文化財 歯朶具足(伊予札黒糸威胴丸具足)」(岩井与左衛門作)「重要文化財 東照社縁起絵巻(仮名本) 狩野探幽筆」(家康の一生と日光東照社創建の由来を構成。撰述には天海と尊純法親王が関わり、絵は幕府御用絵師の狩野探幽が描き、詞書は、後水尾上皇はじめ親王・門跡・公家衆・天海24名が寄り合い書きをしている)「東照大権現像 伝狩野山雪筆」「重要文化財 大名物 唐物茶壺 銘松花」「水艸立鷺図」(伝徳川家康筆)などを見る。

東照社縁起絵巻」に、後水尾上皇が「詞書」を書かれているのには驚いた。後水尾上皇御宸筆「東照大権現」と記された書も展示されていた。大変な達筆であらせられる。日光東照宮の陽明門をはじめ各所に、後水尾天皇の御宸筆とされる勅額が掲げられている。戊辰戦争の折、日光東照宮の焼き討ちを要求する薩摩藩を説得する理由の一つとして、土佐藩の板垣退助がこの勅額が掲げられていることを挙げたという。

幕府は徳川家康を神格化するために、天皇及び朝廷の神聖権威を利用したのである。後水尾上皇は、度重なる徳川幕府とりわけ、徳川秀忠の圧迫と不敬行為に耐えられ、朝廷の権威を守られた。京都のある寺院で、後水尾上皇御宸筆の『忍』という色紙を拝したことがある。徳川幕府の横暴に対する御心を示されたと拝される。

幕末期、欧米列強の侵略の危機を打開し、日本の独立を維持するためには、徳川幕府が、天皇及び皇室の神聖権威に対抗すべく不遜不敬にも創出した「東照大権現」の神威では、とても國民的統一の信仰的核にはなり得なかった。

今谷明氏は、「東照大権現の神威は、武家階層はともかく、民衆レベルに浸透したとはとうてい考えられない。反面、大衆の間に天皇祖神を祭る伊勢の神威が高まっていくのは、よく知られているとおりである。伊勢と日光の勝負はもはやついて居た。」(『武家と天皇』)と論じてゐる。

もともと戦國時代の武士の覇権争いの勝者・覇者にすぎなかった徳川氏は、覇者たるのを喪失したのである。端的に言えば、徳川氏は「征夷大将軍」(夷狄を征伐する大将軍)の任に堪えられなくなったのである。

現御神信仰・尊皇精神の興起は、勤皇の志士たちのみならず、一般庶民においても旺盛であった。伊勢の皇大神宮への民衆の集団参拝(いわゆる御蔭参り)が行われ一般庶民の皇室の御祖先神に対する信仰が大きく復活してきていた。天保元年(一八三〇)には、御蔭参り参加者が閏一月から八月までで五百万人に達したという。

國家の独立と安定と統一を保持するには、日本の伝統と自主性を體現される御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないということが全國民的に自覚されるようになった。そして、一君万民の國體を明徴化する明治維新が断行されたのである。

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