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2010年3月15日 (月)

日本の道義精神について

政治の根底には、それを支える正しき國家観と共に正しき道義観念・哲學が必要である。しかし、わが國民は、戦後日本のいわゆる「民主化」が進行する過程において、伝統的権威や慣習に制約されることが少なくなった。今日の日本國民の多くとりわけ若者たちは、正しき國家観を喪失しているだけではなく、正しき道義観・倫理観も持ち合わせていない。 

戦前の日本には、『教育勅語』に集約される正しき道義観があったし、「忠君愛國」「敬神崇祖」という正しき信仰精神があった。しかし戦争に敗北したことにより、それらは全て「軍國主義」「封建道徳」の名を着せられて排撃されてしまった。そしてわが國は道義観なき「自由と民主主義」「個人の尊重」が声高に叫ばれて来たのである。そして五十二年を経過し、今日の体たらくとなっているのである。

わが國には「恥を知る」という倫理観がある。「日本文化は名と恥の文化である」と言われるほどに、わが國民は恥をかくことを嫌うし、名がすたること忌み嫌ってきた。恥をかかさせることに何よりも怒りを覚える國民であったし、恥ずべきことはしないことを何よりも重んじてきた國民である。

ところが、今日の若者は浮浪者でも乞食でもないのに平気で地べたに座り込んで話をしたり、ものを食べている。こういう若者たちを<恥知らず>というのである。若者だけではない。政界・官界・財界のエリートたちも<恥知らず>が多くなってきている。だからわが國近年の外交は屈辱外交を繰り返しているのである。

わが國のすぐれた伝統精神・倫理観念・國家観を回復することが緊急の課題である。問題はその方法論である。一番大切なのは、家庭と學校における教育なのであるが、これがおかしくなっているのだから事は深刻なのである。家庭においては親たちが子供の鏡となるような生活を営むことが大事であるし、學校教育においてはわが國のすぐれた古典を教育すべきである。

共同体は、それを構成する人々の相互信頼と協力によって成り立つ。しかし現実には人々の私利私欲の追求によって相互信頼と協力は屡々破壊される。それを抑制するためには、共同体を構成する人々の利害を超越した神聖性・道義性を持つ「無私なる倫理性の鏡」が必要となる。それがわが国においては共同体の祭祀主たる天皇であらせられるのである。 

尊皇精神が日本の倫理精神の基本である。尊皇精神希薄な小沢一郎が、政治家としての道義感覚も希薄であることを見ればそれは明白である。

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