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2009年10月 5日 (月)

千駄木庵日乗十月四日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後十二時半、南千住の荒川総合スポーツセンターに赴き、「橋本佐内一五〇年祭」に参列しようと思ったが、何と新型インフルエンザが流行っているので、十一月四日に延期になったとのこと。

そこで折角来たので、南千住駅近くの回向院に赴く。寛文七年(一六六七)に両国回向院の住職弟誉義観によって、行路病死者、刑死者の供養のため別院として創建された。「贈十四位 佐久良東雄遺墳」「磯部浅一・妻登美子之墓」「雲井龍雄遺墳」「相馬大作供養塔」「橋本景岳先生墓所」「松陰二十一回猛士墓」「桜田烈士十六氏の墓」を巡拝。

明治維新の先駆けとして散って行った方々の御霊を偲ぶ。吉田松陰先生と橋本左内先生のお墓が並んでいることにも深い感慨を覚えた。このお二方は、明治維新にはかり知れない思想的・精神的影響を与えた大偉人である。

参拝に来ておられた橋本左内の出身地である福井出身の方と知り合い、お話をうかがう。そして共に、近くの「荒川ふるさと文化館」に赴き、企画展「橋本左内と小塚原の仕置場」を参観。

「回向院にある橋本左内の墓や吉田松陰の墓は、荒川区の代表的な文化財・史跡として大切にされてきました。また回向院は、杉田玄白らに医学書『ターヘルアナトミア』の翻刻及び『解体新書』の出版を決意させるきっかけとなった解剖見学の場所としても知られています。…当時の小塚原の仕置場及び回向院が果たしていた機能や役割を、橋本左内を主軸に置きながら紹介します。また、史跡になっていく道行を、古文書や古写真、そして近年、埋蔵文化財発掘調査によって明らかとなった出土資料などの情報からたどり、先の問いについて考えます。本展の開催が、身近な史跡から地域を見つめ直す機会となれば幸いです。」(案内書)との趣旨で開催された。

「仕置場平面図」「解体新書」「安政禄己歳回向誌」「橋本左内肖像幷小伝」「勤皇祭趣意書」「刀・銘藤枝英義」(刑死者の遺体を使って試し斬りをした刀という)などを見る。小塚原は、江戸時代の刑場であるから、現代の感覚ではとても考えられないことが行われていたことが分かる。とてもここでは書くことができない残酷なこと、理不尽なこと、そして恐ろしきことが行われていた。江戸時代にこの刑場で処刑された人は約二十万人に上るという。しかもお墓も建てられず、土に深く埋葬されなかったので、遺体はカラスや野犬の食べるのにまかせたという。なんとも恐ろしいことである。

素盞雄神社に参拝。「由緒書」に「当社の開祖となる黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩がありました。黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代延暦一四年(七九五)四月八日の夜、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、『吾はスサノオ大神・アスカ大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん。』と御神託を授け、黒珍は一祠を建て鄭重にお祀りし、当社が御創建されました。」と記されている。しばらく境内で休憩。

この後、福井出身の方と懇談。「継体天皇・結城秀康・松平春嶽・由利公正・橋本左内・岡田啓介」などについて貴重なお話をうかがう。偶然に出会った方であったが、大変勉強になった。詳しいことは後日改めて書きたいと思う。印象に残った言葉は、「福井には日本の国家的危機を救った人が三人いる。継体天皇・由利公正・岡田啓介である。」「戦争は文化の発達には貢献しないが、文明の発達には貢献する」であった。この方は十八歳の時に福井から上京されたとのことであるが、愛郷心のまことに強い方である。日暮里までご一緒し、再会を約してお別れした。

谷中にて、二十代の時からの友人のある大学の教授と懇談。大学生の質の低下は末期的であると嘆いておられた。精神的安穏を得るため谷中の全生庵に禅を組みに来ているという。

帰宅後は、原稿執筆。

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