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2009年10月 8日 (木)

千駄木庵日乗十月七日

午前は、父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

昼は、知人と懇談。

午後は、「政治文化情報」の原稿執筆。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が、『萬葉集』巻十九の収められた大伴家持の歌を講義。終了後、今日初めてこの会に参加した方と懇談。大変お世話になった方の御子息である。

帰宅後も原稿執筆。

           ○

この『日乗』に記したように、小生は、十月四日、南千住回向院の安政の大獄で刑死した福井藩士・橋本左内の墓所に参拝してきた。新聞報道によると、今日、福井市主催で行われた墓前祭に、井伊家十八代当主の井伊直岳・彦根城博物館長と獅山向洋市長が参列したという。その新聞報道には福井市と彦根市との「和解が果たされた」と書いている。

幕末の大老で旧彦根藩十三代藩主井伊直弼は、幕末維新史では、反動的人物、多くの志士を死に至らしめた人物と記されている。私もその評価は間違ってはいないと思う。しかし、井伊直弼には井伊直弼なりの正義があったとは思う。歴史上の人物の評価はなかなか難しい。幕府を守ろうとして実行した井伊直弼の政策が、幕府崩壊を早めてしまったことは事実である。吉田松陰・橋本左内という先見の明のあった立派に人物を殺してしまったという批判が井伊直弼に集中している。

会津と長州も仇敵のような関係になっていたが、やはり同じように、近年お互いの市長か誰かが訪問し合って「和解」が成立したと言われる。私は別に無理して今の自治体同士が「和解」とやらを推進しなくてもいいとは思うが、歴史を学び、歴史を教訓にするという意味では、無意義なことではないだろう。

長州藩の幕府に対する反感は関ヶ原以来といわれる。また明治維新の歴史においても、第一次長州征伐が行われた時、幕府は今の世田谷にある長州藩の墓所(そこには松陰先生の墓もある)を破壊した。これも相当の恨みを買ったと思われる。

彦根藩は、戊辰戦争でいち早く新政府軍につく。そして上野戦争では、彰義隊攻撃の先鋒をつとめた。新政府軍の命令には逆らえなかったに違いない。ところが会津藩は、奥羽列藩同盟の中心的存在となる。そして新政府軍に会津を攻められ、鶴ヶ城は落城し、明治維新後は様々な辛い目に遭った。そのことはついて、今日唯今も、会津の人々は特別の感情を持っている人が多い。

歴史の評価というのは本当に難しいし、悲劇が起こる。一方を絶対的正義とし、一方を絶対的悪として裁くことはできない。国内の歴史においても然りなのだから、大東亜戦争そして近代以後の日本の対外関係史を、日本が一方的に悪かった。日本は侵略国家であった、などと思い込み、謝罪を繰り返し、贖罪意識を抱き続けるなどということはあってはならない。

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