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2009年7月28日 (火)

千駄木庵日乗七月二十七日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

お昼は知人と懇談。西南戦争特に警視庁抜刀隊・川路大警視のことなどが話題となる。川路大警視は本当に西郷隆盛暗殺命令を下したのかどうか、今でも真相は分からない。「視察せよ」を「刺殺せよ」と聞き違えたなどと言われているが、あり得ない話である。警視庁密偵は全員、鹿児島県警の拷問に耐えかねて、「暗殺を目的として鹿児島に来た」と自白したと伝えられる。川路大警視はその手記に「西郷先生が兵を従えて上京して来たら、鉾をさかしまにしてこれを迎えるべきに、かえってこれを討ち取ることが西郷先生の恩に報いる道である」と書いているという。鹿児島県士族として同じく警視庁に勤務し、同じ久松警察署で同僚であった者同士が、田原坂で相見え、戦わねばならなかったということもあったという。ともかく、歴史の悲劇であった。

午後は諸雑務。

午後五時半より、九段会館にて、「倉林和男さんを偲ぶ会」開催。

倉林和男先生は、昭和五七年に空将補として自衛隊を退官した後、「英霊にこたえる会」事務局長・運営委員長として靖国の英霊慰霊顕彰活動を行うと共に、「東京裁判史観」「南京事件問題」「百人斬り事件」の是正・市ヶ谷記念館設立運動などに挺身して来られたが、本年六月十九日、八十二歳で逝去された。

「偲ぶ会」は、冨田定幸氏の司会で進められた。黙祷の後、堀江正夫「英霊にこたえる会」名誉会長(元参院議員)が発起人を代表して挨拶した。森田次夫副会長(元参院議員)の音頭で献杯が行われた。佐藤博志・中村信一郎・郷田豊・大原康男・水島総・外薗健一朗の各氏が追悼の言葉を述べた。全員で「同期の桜」を合唱し、次女の倉林晶子さんが遺族を代表して謝辞を述べた。

倉林和男先生は、私も参加している「時局戦略懇話会」の中心メンバーのお一人であられた。思い出は数々あるが、今でも忘れられない思い出がある。靖国神社のことで、倉林先生のお供で当時の新進党本部に要請文を提出に行った時、応対に出た国会議員が、倉林先生が起立して両手で要請文を渡したのに、その議員は座ったまま片手で受け取った。倉林先生はじっと我慢をされた。しかし小生はこの無礼を断じて許せなかったので、大音声を張り上げで「無礼者。何だ、その態度は。立って両手で受け取れ」と一喝した。その議員は一応の陳謝に及んだ。

倉林先生は、自衛隊高官として、指揮をとっておられたので、運動の進め方が緻密にして整然としていた。晩年、癌と闘いながら、懸命に護国英霊慰霊顕彰運動に尽くされた。そして、後継者体制を整えられた。かと言って自衛隊高官であったことを鼻にかける態度は微塵もなく、打ち解けてお話の出来る方であった。私の父も自衛隊に勤務していたので。親近感を抱かせていただいた。また、酒豪であられたが酒に呑まれるということも決してなかった。心よりご冥福を祈らせていただきます。

民主党政権になって、靖国の英霊を冒瀆するような政策をとったら、断固として膺懲しなければならない。

帰宅後は、資料の整理。

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