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2009年4月 4日 (土)

千駄木庵日乗四月三日

午前は父母のお世話。訪問看護方と共なり。

午後は晴天であったので、息抜きのため、我が家近くを散策。谷中銀座という商店街を通り抜ける。近年よくテレビ・雑誌で紹介されるためか人出が多い。「夕焼けだんだん」というのをのぼり、諏方台通りを歩く。谷中銀座や日暮里駅前の喧騒が嘘のような静けさ。

諏方神社(諏訪神社とは書かない)に至る。御祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)。土御門天皇の御代の元久二年(一二〇五)創建。日暮里・谷中の総鎮守。高台にあり、境内から荒川区一帯が見渡せる。桜は八分咲き。このあたりは「谷中生姜」発祥の地という。

西日暮里公園に入る。道灌山と呼ばれ、江戸時代には景勝地として知られていたという。安藤広重の錦絵にも描かれている。わが家のそばのバス停留所はこの公園とは少し離れているのだが道灌山下という。ここから筑波・日光の山々や利根川まで眺めることが出来たという。今でもよく晴れた日には遠くに山並みが見える。また近くの富士見坂からは富士山も見える。上野山から飛鳥山まで続く景勝の地だったと思われる。すぐ下が西日暮里の駅。近所の女性の方が連れて来た兎と遊んでおられた。 また公園の隅にここを住処とする人のテントがある。この前来た時は、お仲間の方々と麻雀を楽しんでおられた。まことに風流である。

養福寺に参拝。このお寺は真言宗。本尊は如意輪観世音菩薩様。本山は大和の長谷寺。朱色の仁王門やしだれ桜もある。

本堂のそばには弘法大師像もある。わが家の菩提寺も真言宗であり、我が家がお護りしている観音堂の本尊も如意輪観世音菩薩様なので親しみを感じる。境内は実に美しい。少し大げさにいえば浄土に来たような心地がする。

スイスの山小屋風の茶房に入る。テラスで休憩。読書。今はウイリアムジェイムズなどプラグマチズムの原典を読んでいる。外国人が何組か来ていた。

日暮里駅前に戻る。桜並木がある。谷中霊園に入る。天王寺に参詣。谷中大仏(釈迦牟仁仏像。元禄三年(一六九〇)に鋳造建立されたというから、東京にある仏像では古い方である)に参拝。カメラを手にした人々や夫婦連れが多く歩いている。

出羽海谷衛門(十九代横綱・常陸山)、足立正聲(鳥取藩士。宮内省図書頭。そばに「男爵足立君墓碑銘」(侯爵池田仲博篆額・東宮侍講三島毅撰・正五位日下部東作書)が建てられている)、鶴田皓(あきら・佐賀藩士。大審院検事長、元老院議官。そばに「鶴田君碑」(司法大臣山田顕義篆額・大審院検事三島毅撰・元老院議官巌修書)が建てられている)、小平浪平(日立製作所創業者)、廣津柳浪(明治期の作家。尾崎紅葉の硯友社同人、自然主義文学勃興以前の最高の作家と言われる)、廣津和郎(柳浪の子。昭和期の作家)、鷲津毅堂(漢学者。永井荷風の母方の祖父)、日下義雄(会津藩士。日新館に学び戊辰戦争で鳥羽伏見の戦いで負傷、五稜郭の戦いで捕縛される。維新後何と井上馨の知遇を得、明治七年アメリカに長州藩から派遣される。帰国後、福島県知事・第一銀行取締役)、「小針重雄・三浦文治・琴田岩松・横山信六・天野一太郎合同墓」(「加波山事件」で処刑された人々の墓)などを巡る。

青山霊園は、どちらかというと薩摩・長州など西南雄藩出身の人々の墓が多い。つまり、明治新政府の高位高官の墓が多いということである。谷中霊園は、西南雄藩の人々の墓は比較的少ない。そして戊辰戦争やその後の反政府運動で非業な最期を遂げた人の墓がある。これは、徳川将軍家菩提寺寛永寺の近いためかあるいは、霊園整備の時期のせいかどちらかであろう。墓碑銘の文を書いた三島毅は、二松學舎の創立者。今は大きな墓碑銘や石碑が建てられることは少なくなったし、漢文を書く人も少なくなっている。たとえ建てられても、漢文ではなく、新仮名遣いの現代文が多い。何んとも悲しいことである。

帰宅後は、書状執筆など。資料整理・検索。次号の「政治文化情報」は、吉田松陰について書くつもりである。

         ○

「加波山事件」とは自由民権運動の激化した明治十七年の秋に起きた決起事件。加波山は茨城県桜川市と同石岡市の境に位置する標高七〇九mの。天狗が住むといわれる霊峰。

栃木県令を兼ねることになった福島県令三島通庸が、栃木県でも福島県と同様に自由党を弾圧すると共に、不況下の農民に労役を課して道路を建設しようとした。これに憤激した自由党員十六名(茨城県人三名、福島県人十一名、栃木県人一名、愛知県人一名、平均年齢約二十四歳)は、宇都宮の新県庁舎落成式の日に三島通庸らの暗殺を企てたが失敗、加波山山頂の加波山神社を本陣として、「檄文」を発し、さらに、真壁町の町屋分署を爆発弾で襲う計画を立てた。しかしすべて捕らえられた。これで茨城県下の自由民権運動は終わりを告げたといわれる。

決起参加者は爆弾を製造したり、豪商・警察を襲撃したためか、政治犯としてではなく、刑事犯・破廉恥犯として処刑されたという。しかしながら、「決起趣意書」(檄文)は次の通りであり、なかなか立派な文章である。

「抑も建國の要は衆庶平等の理を明らかにし各自天與の福利を均く享るにあり而して政府を置くの趣旨は人民天賦の自由と幸福とを扜護するにあり決して苛法を設け壓逆を施こすべきものにあらざるなり然而今日吾國の形勢を観察すれば外は條約未だ改まらず内は國會未だ開けず爲に奸臣政柄を弄し上聖天子を蔑如し下人民に對し収歛時なく餓莩道に横はるも之を檢するを知らず其惨状苟も志士仁人たるもの豈にこれ之を黙視するに忍びんや
夫れ大厦の傾けるは一木の能く支ふる所にあらずと雖も奈何ぞ坐して其倒るゝを見るに忍びんや故に我々茲に革命の軍を茨城縣眞壁郡加波山上に擧げ以て自由の公敵たる専制政府を顚覆し而して完全なる自由立憲政體を造る出せんと欲す嗚呼三千七百万の同胞よ我黨と志を同ふし倶に大儀に應ずるは豈に正に志士仁人の本分にあらずや茲に檄を飛して天下兄弟に告ぐと云爾
明治十七年九月廿三日                」

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