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2009年4月 7日 (火)

千駄木庵日乗四月六日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後からは在宅して「政治文化情報」の原稿執筆など。途中気晴らしに、近所の須藤公園と林町公園に赴き、満開の桜を見る。

須藤公園は、小生の幼い頃からの遊び場である。加賀藩の支藩の大聖寺藩(十万石)の屋敷跡。その後、長州出身の政治家品川弥二郎の邸宅となり、明治二十二年(一八八九年)に実業家須藤吉左衛門が買い取った。昭和八年(一九三三年)に須藤家が公園用地として東京市に寄付、昭和二五年(一九五〇年)に文京区に移管された。

高低差のある台地と低地を巧みに生かした公園。樹木も多く森のような感じでもある。滝があり、池があり、弁財天がまつられている浮島がある。規模はそれほど大きくはないが武家屋敷の面影を残している。私はこの庭園を駆け巡ってよく遊んだ。

近くに前田藩邸(今日の東大)があったので、前田藩の支藩の屋敷が作られたのであろう。支藩と言っても十万石という大大名である。

品川弥二郎は長州藩士にして、吉田松陰門下。松陰逝去後、遺志を継承して尊皇攘夷、倒幕運動に邁進し、薩長同盟成立に尽力。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。戊辰戦争の際、新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」(「宮さん宮さん」)の作詞者という。維新後は、内務大臣・枢密顧問官。九段坂に銅像が建てられている。

維新後、かつての維新の志士たちは、旧幕府時代の大名屋敷に入った人が多かった。こうしたことが、「維新は権力の移動にすぎない」という批判が起こる原因の一つであろう。品川弥二郎などはまだ良い方で、山縣有朋は、目白に広大な屋敷(今の椿山荘)を建てた。

師である吉田松陰は「身はたとへ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という辞世の歌を遺したが、権力者になった門下生は、武蔵野の野辺に金殿玉楼を築いたと言っては言い過ぎであろうか。今、吉田松陰に関する原稿を書いているので余計にそう思う。しかし、こういう批判は現代に生きる者の感覚であって、当時としては左程問題にはならなかったのかもしれない。

夜も原稿執筆。

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