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2009年4月13日 (月)

千駄木庵日乗四月十二日

未明「政治文化情報」の原稿完成、送付。

午前は父母のお世話。

午後からは在宅して資料の整理など。

            ○

歴史の見方というのは色々ある。明治維新そして維新後の近代化について、色々な論議がある。薩長藩閥政治に対する批判は多くの人々から出されている。私が好きな作家である永井荷風の近代批判は、すさまじいまでの反薩長政府に貫かれている。荷風は、明治新政府を「足軽政府」と罵り、「薩摩長州は実行不可能な攘夷を言い立てて幕府を追い詰め権力を奪取した」と断定している。

たしかに薩長が絶対的正義であり、徳川を絶対的な悪とすることはできない。また維新変革の過程のみならず、近代化の過程に於いて、色々な矛盾や非道なこともあったであろう。

私は、生まれも育ちも東京である。父は徳島から上京して来た人だが、母方は関東の人間である。荷風の言うことに共感する部分もある。

しかし、やはり徳川幕藩体制を打倒し、天皇を中心として国家体制をつくり、近代化を推し進めたことは否定することはできないと思う。正しかったと思う。

日本国は神代以来、天皇が統治される国である。中心がしっかりと確立されていなければ、欧米列強の東亜侵略の危機を打開し統一と団結と安定を保つことはできなかったに違いない。京都御所に天皇を押し込め、徳川氏が覇者として政治の実権を握っていた体制、すなわち国家の中心が二つあるかの如き体制は打倒されなければならなかった。

徳川将軍家は、京都の朝廷の権威を借りて、自己の権威を確立した。徳川家康を東照大権現と称し、家康を祭る神社を東照宮と称したのは、明らかに、日本天皇の神聖権威の模倣である。

しかし、その権威では国家的危機を打開することは出来なかった。神代以来天皇の神聖権威を精神的基盤としなければ、国家的危機を打開できなかった。だからこそ「尊皇攘夷」というスローガンで、国民が一致結束したのである。

明治維新は、無血革命ではなったが、フランス革命、ロシア革命などの外国の革命と比較すれば殆ど「無血」と言って良いのではないか。維新変革は政治闘争・権力闘争・武力闘争の側面がある。色々詳しく調べれば、薩長側にも非があったのは致し方のない事と思う。そうした薩長批判は共感することも多い。とくに松平容保及び会津藩は気の毒であった。

しかし、私はどうしても納得ではないのは、井伊直弼を高く評価する説、錦の御旗はニセモノだったという説である。さらに許し難いのは、ここに書くのもはばかられるが、「孝明天皇暗殺説」である。これらの説に対しては、徹底的に反論しなければならないと考えている。

『文藝春秋』今月号に、半藤一利氏の「明治維新は非情の改革だった」と題する論文が掲載されている。まだ精読は出来ないが、「薩長=開明派、幕府=守旧派はという図式は間違へ、維新の最高指導者たちは『尊皇攘夷』など信じていなかった、明治維新は薩長による政権強奪である」ということが論じられている。

井伊直弼などの幕閣が、幕藩體制維持のために反動的政策をとった事がかえって維新を早める結果となったのであり、井伊直弼が主導した幕閣が開明派だったなどということはあり得ない。

井伊幕閣が勅許を得ずして開國したことが明治維新の発火点になったのであるから、維新を目指した人々(水戸藩を含む)が尊皇攘夷を信じていなかったなどということはない。

維新は旧體制の打倒であるから、政権強奪と言っても全く間違いではない。行き過ぎもあれば残忍酷薄なこともあったてあろう。それは新政府方も旧幕府方もお互いの事であって、親政府方のみを責めるべきではない。西南雄藩が新政府の主導権を握ったのは彼等が維新の推進力だったからであり、政権強奪と決め付けることはできない。新政権には旧幕臣も多く参加している。

半藤氏は、吉田松陰そして松陰に大きな影響を与へた水戸學などの江戸期における尊皇思想の高まりをあまりにも過小評価し、明治維新の粗探しに躍起になっている。

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