« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

2009年4月30日 (木)

千駄木庵日乗四月二十九日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は諸雑務。

午後三時より、ベルサール九段にて、「平成二一年昭和の日をお祝いする集い」開催。奉祝式典が行われ、国歌斉唱・宣言朗読が行われた。

鈴木英夫「昭和の日ネットワーク」会長が主催者挨拶を行い、「私の家は今日国旗を掲げたが、私宅の近所には他に一軒も国旗を掲げた家はなかった。日本くらい国旗が掲揚されない國はない」と語った。

続いて、小田村四郎「日本の建国を祝う会」会長が挨拶し、「戸山が原の焼け跡で終戦を迎えた。この日が私の人生の出発点。六百万将兵が粛々と兵をおさめたのは承詔必謹の精神による。九月二日に武装解除が終わると、占領軍は国際法と『ポツダム宣言』に違反して日本弱体化を押し進めた。これが今日まで禍根を残している。昭和天皇のお陰で今日の日本国および日本国民がある。自虐的風潮を打破することが、昭和天皇の御聖徳にこたえる道。」と語った。

下村博文衆院議員は「昭和の時代は後世の手本となる時代。

独立国家としてふさわしい國になるために、憲法改正は絶対に必要。」と語った。

続いて記念講演が行われた。

新保祐司都留文科大学教授は「『海ゆかば』は昭和を象徴する曲。明治時代は幕末から明治にかけての日本の悲劇をうたいあげた歌が『荒城の月』。『海ゆかば』の作曲者・信時潔は戦後不遇だった。『海ゆかば』は戦後GHQによって封印された。戦前と戦後の断絶を象徴する歌が『海ゆかば』。『萬葉集』は日本傳統精神のふるさとと言われるが、大伴家持の歌には悲劇性がある。藤原氏は唐の制度を日本の傳統に関係なく取り入れた。日本の傳統を護ろうとした大伴氏は負けてゆく。文明開化の勢力に大伴氏は負けてゆくが、『萬葉集』の編纂によって日本の傳統を護ろうとした。『大君のへにこそ死なめかへりみはせじ』というのは大伴氏の悲壮な決意。信時潔作曲の『海ゆかば』は、『萬葉集』とバッハをぶつけている。大東亜戦争は文明の戦争。天皇・皇后両陛下がサイパン島に行かれた時、島民は『海ゆかば』を歌ってお迎えした。慰霊の歌として歌った。サイパン島の方々に正しい歴史が伝えられている。日本列島の島民はそれを失った。『海ゆかば』は戦争末期、軍歌ではなくレクイエムとなった。どっしりと長い目で歴史を見れば、正しいことは復活する。歴史に対する信頼が大事。『海ゆかば』を歌う日本人が多くなれば歴史は継承される。」と語った。

渡部昇一上智大学名誉教授は「今日、完全に歌われなくなった歌は『天長節』の歌。昭和天皇の御一生は共産主義との戦いであった。皇室をなくしてしまえという指令がコミンテルンから来た。軍人の中にも共産主義のシンパがいた。アメリカとイギリスはブロック経済で日本を締め上げた。日本の不景気の原因は資本家が悪いという宣伝が行われた。首相を殺した軍人が死刑にならなかった。天皇さえいればいい、地主も資本家も重臣もいらないと言うのが、二二六事件。張作霖爆殺事件は河本元大佐がやったというが、リットン調査団は『風聞ならざるはなし』とした。当時、ソ連と揉めていた張作霖をソ連が殺したとしてもおかしくはない。ソ連は支那を使って反日運動を起こさせた。黄埔(こうほ)軍官学校はコミンテルンが作った。アメリカは『排日移民法』を作った。ルーズベルトの周囲にはコミンテルンとその同調者が取り巻いた。上海において日中戦争の拡大を画策した張治中は共産主義者。日本に対して東からも西からも足元からも平和を乱したのは共産主義者。『ハルノート』を書いたアメリカ政府高官も共産主義者であり後に自殺した。『蒋介石を相手とせず』という声明を作らせたのは、近衛のブレーンの共産主義者。『ポツダム宣言』の受諾により、天皇は連合軍総司令官に隷属した。占領期間中は主権の発動はあり得ない。独立を回復したら、『帝国憲法』に一度回帰すべきだった。神話の世界からの君主が今も続いていることが日本の最大の誇り」と語った。

帰途、同志と懇談。

帰宅後は、『大吼』連載中の「萬葉集」講義の原稿執筆。

             ○

「海ゆかば」の歴史的意義については勉強になった。昭和時代の鎮魂歌であろう。ただし、谷口雅春先生は、「『海ゆかば』を歌うと言葉の力によって戦いは負ける」と主張していた。これは難しい問題である。

渡部氏の歴史観も勉強になった。私は、五・一五、二・二六は、共産主義の影響を受けたと言うよりも、何んとか共産革命を防ぎたいという一心で行われたと思っている。「天皇中心社会主義」の主張もそうした観点からであったろう。当時としてはやむを得なかったと思う。私の解釈は誤りであろうか。

| | トラックバック (0)

2009年4月29日 (水)

千駄木庵日乗四月二十八日

午前は父に付き添って病院へ。定期的な診察と治療。

午後は諸雑務。

夕刻、湯島にある同志事務所訪問。長年の同志と懇談。民族運動の現状と展望について語り合った。

        ○

病院の行き返り、谷中・根津・千駄木を通りましたが、大変な人出でした。私の生まれ住んでいる千駄木というところも観光地になった観があります。この五月の連休は、根津神社でつつじ祭りが行われているので、余計人が多く来るのです。下町情緒が残っていると言われます。また、明治大正期の建物が残っています。これは関東大震災や米軍の空襲による被害も比較的少なかったことと、お寺と墓地があるため再開発もあまり行われないためかと思います。また、谷中墓地や東大がありますから、都心にしては緑が多いのです。十人、二十人のグループが歩いていました。

今日懇談した同志と久しぶりにカラオケスナックに行きました。その店のお客さんは、老人がほとんどでした。七十歳は超えている方々ばかりだったと思います。皆さん元気に歌を歌っておられました。高齢化社会になりつつあることを実感しました。

| | トラックバック (0)

2009年4月28日 (火)

千駄木庵日乗四月二十七日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

父母のケアマネージャーの方と来月の介護計画について相談。

午後からは、資料の整理。

午後七時より、午後七時より、千駄木の養源寺にて、「おとなの寺子屋・論語の会」開催。東洋大学共生思想研究センターの野村英登氏(文学博士)が講義。次のように語った。

「泰山(支那五つの名山の一つ。山東省にある)はその下に死後の世界があると信じられていた。封禅(ほうぜん・泰山の上で檀を作り天を祭るのが封、泰山のふもとで地を祓って山川を祭るのが禅だという)とは、天子が天命を受けた時の儀式。『史記』に『封禅書』という文章がある。中国古代の宗教を考える上で『封禅書』は重要。信仰世界から世界観が生まれる。春秋戦国時代は天子がいなかった時代。秦が中国を統一し、始皇帝が封禅の儀式をした。太古に封禅が行われたかどうかは疑わしい。

天の意志が端的に表れるのは天空の事象。北斗七星と北極星が大事。北極星は動かないので、天の宮殿と考えられた。北極星には天の神が住んでいる星と考えた。その周りを北斗七星が回っている。

中国の祭祀では動物を神に捧げた。明時代の医療署に胎児を食べると病気が治ると書かれている。人間を生贄にしたことはあったと思われる。

漢の時代に中国が統一された。中央権力によって文化も信仰も統一された。我々が学ぶ中国の古典は漢の時代の目線で書かれていると考えてよい。鬼神の鬼は死者の霊。神は超自然の存在。孔子の時代、祭礼は統治と密接に関連していた。」と語った。

千駄木庵主人曰く。支那の祭祀と日本の祭祀の決定的な違いは、人を生贄にして神に捧げるかどうかである。わが国傳統信仰には、人間はもちろん、動物を生贄にする風習は基本的に無い。支那人は古代より肉食であったが、日本人の主食はコメであり、肉はあまり食べなかったからであろう。中国人は食人種であるという説もある。また日本神話には太陽の神、月の神はおられるが、星の神は登場しない。日本人は長い船旅をしなかったし、島国なので、星を頼りの旅をすることがなかったからであろう。日本と支那は文化的にも宗教的にも決して近い関係にはないのである。アメリカ人と同じくらいかあるいはそれ以上の違いがある。

帰途、出席者と懇談。

| | トラックバック (0)

2009年4月27日 (月)

千駄木庵日乗四月二十六日

朝、父母のお世話。

午前十一時より、上野公園の西郷南洲翁銅像前にて、「西郷南洲會銅像清洗式」挙行。五条天神社の瀬川宮司が祭主となりて神事が行われた。国民儀礼の後、早瀬内海会長が挨拶。玉串奉奠が行われた。その後、藤元正義氏及び小生が祝辞を述べた。そして、居合道・太鼓演奏の奉納が行われた。

小生は、「歴史上の人物で、誰からも尊敬されている人物は、楠木正成、吉田松陰、西郷隆盛のお三方である。この三方に共通するのは、尊皇精神であり、自分の命・権力・名誉に恋々としない生きざまである。今日の西郷像清洗は、国民全体が本来持っている尊皇愛国の精神を磨きだすことを象徴する行事であると思う。危機に瀕する今こそ、大西郷の精神に回帰することは大切である」という意味のことを申し述べさせて頂いた。

終了後、上野公園のある東京都美術館で開催中の「日本の美術館名品展」参観。「全国の公立美術館100館が参加し、その膨大なコレクションの頂点をなす、選りすぐりの名品を一堂に公開します。公立美術館のネットワーク組織、美術館連絡協議会の創立25周年を記念して開催するもので…公立美術館が開館以来の歩みの中で蓄積した名品がお待ちしています。 」(案内書)との趣旨で開催された。

藤田嗣治、ピエール・ボナール、パブロ・ピカソ、エゴン・シーレ、マルク・シャガール、竹内栖鳳、野口彌太郎、三橋節子、横山大観などの作品を見る。

癌によって右腕を切断した後も絵を描き続けた三橋節子という画家が、昭和五十年に三十五歳の若さで亡くなる直前に描いた「余呉の天女」という作品に感動した。砂澤ピッキという画家の「午前三時の玩具」という作品は、北海道の音威子府の駅を午前三時に通過する夜行列車をテーマにていた。私は二十年くらい前に、音威子府を夜汽車で通過したことがあるので印象に残った。その時、「次はオトイネップです」という車内放送があった。私は「次はおトイレットです」と聞き間違えて、ずいぶん親切な車掌さんだなと思ったことを思い出した。

洋画・日本画・彫刻・版画などが展示されていたが、私はやはり日本画を見ると一番心が落ち着く。現代美術というのはどうもわけが分からない。

帰宅後は、資料の整理。

| | トラックバック (2)

2009年4月25日 (土)

千駄木庵日乗一月二十五日

朝、武智氏のお出迎えを受け、一路葛城古道へ。

高天原と名付けられた地を訪ね、高天彦神社、高鴨神社などを巡拝。高鴨神社にては鈴鹿義胤宮司と懇談。

橿原神宮前駅より近鉄線にて京都へ。新幹線にて帰京。

今回は武智功氏に格別のお世話に相成りました。深甚の謝意を表します。久しぶりに大和の地を訪れ、日本民族の魂の故郷にて色々学ばせていただきました。詳しい旅行記は、「政治文化情報」誌に書かせていただきます。

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗四月二十四日

朝、武智氏のお出迎えいただき、宿舎を出発。

宇陀市の「かぎろひの里」へ。柿本人麿の歌の故地。「東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」と、人麿が詠んだ広野原を見渡す。

P4240007_01

そして八八咫烏(やたがらす)神社、阿紀神社、丹生川上神社、等弥神社などを巡拝。丹生川上神社中社では日下康寛宮司と懇談。

今日は萬葉のロマンと神武建国の聖地で悠久の国史を回顧する。

Photo

| | トラックバック (0)

千駄木庵日乗四月二十三日

朝、新幹線で京都へ。近鉄線に乗り換えて橿原神宮前へ。宿舎へ。

武智功奈良新聞論説委員の御案内で、橿原神宮に参拝。神域より畝傍山を仰ぐ。そして天香具山、三輪大社、檜原神社、景行天皇御陵、崇神天皇御陵、箸墓を巡拝。檜原神社より二上山を眺望する。北白川宮房子内親王御歌碑を仰ぐ。

| | トラックバック (0)

2009年4月23日 (木)

千駄木庵日乗四月二十二日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は諸雑務。

午後六時半より、豊島区立駒込地域文化創造館にて、「萬葉古代史研究會」開催。小生が、萬葉集巻一七の大伴家持の歌を講義。

帰宅後は、明日からの地方出張の準備・諸雑務。

               ○

大伴家持は『萬葉集』の代表的歌人である。『萬葉集』の編者とされている。今日講義した歌は、家持が越中の國の國司時代の歌である。大伴氏は、天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされ、大和朝廷の武・軍事を担当する家柄である。古代日本は何事も神の祭祀が中心であった。

古代においては、武・軍事と祭祀・和歌は近い関係にあった。祭祀においては祝詞を唱える。この祝詞が和歌を中核とする日本文學の起源である。したがって、大伴氏は、和歌を詠む人が多かった。家持の父の大伴旅人、母の大伴坂上郎女も、多くの歌をのこしている。『萬葉集』は、大伴氏の歌が中心になっていると言っては言い過ぎだが、大伴氏の『萬葉集』に占める位置は極めて大きい。

それと比較して、大伴氏にとって代わって政治権力の中枢に位置するようになる藤原氏は、萬葉時代には歌を詠む人はまだそれほど多くはない。

勝者・栄華を極める人々は、後世にのこる和歌などの文藝作品を創作していない。(もちろん例外はある)それは近代文学に至るまで、文藝全般に言えることである。現状に満足し栄華を極めている人よりも、現状を何とかしようと考える人が良き作品をのこすのである。明治維新の志士たちの歌は人を感動させる歌が多い。

時代状況も、あまり平和で落ち着いた時代には、偉大な文藝は生まれないようである。(これももちろん例外はある)『萬葉集』は大化改新・壬申の乱という大変な変革期・建設期に生まれた。決して平和な時代の歌集ではない。

今日の日本の維新変革の時代である。今こそ偉大なる「やまと歌」が勃興するべきである。

| | トラックバック (0)

2009年4月22日 (水)

千駄木庵日乗四月二十一日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

昼は、知人と懇談。

午後からは、在宅して、「月刊・大吼」の原稿執筆・完成・送付。四月二九日に行われる「西郷南洲像清洗式」におけるスピーチの準備。

大西郷は、「王を尊び民を憐れむは学問の本旨」「萬民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節儉を行ひ、職務に精勵して、人民の標準となり、下民をしてその勤労を感謝せしむるに至らざれば、政令は行はれ難し」と述べている。この言葉も今日の我國政治家が噛み締めなければならないと思う。

また大西郷ののこした言葉以上に彼の歩んだ道、彼の行った偉業そのものにこそ、大西郷が今日の我々に語りかけている大きな教訓があると信じる。

           ○

政治家の世襲が問題になっているが、私は構わないと思う。というよりも、選ぶのは選挙民なのだから、世襲であろうとなかろうと、選挙民の意志にまかせるべきだ。また、議員の定年制というのもおかしい。これも選挙民の選択に任せるべきだ。

世襲だろうと、何歳になっていようと、国会議員を選ぶのは選挙民である。ましてこれからは高齢化社会になる。高齢者の議員が増えるのは当然なのではないだろうか。議員・政治家は経験も大切な資質の一つである。運転免許とは違うのである。

小泉純一郎元総理は、「改革」を叫んで、やりたい放題のことをした。しかるに、中曽根康弘・宮沢喜一両氏を定年制だとか言って引退に追い込んだ。ところが、自分の息子を後継者にした。これは納得がいかない。あまりにもご都合主義ではなかろうか。

私の意見は間違っているでありましょうか。

| | トラックバック (1)

2009年4月21日 (火)

千駄木庵日乗四月二十日

午前は、父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後からは、諸雑務。そして明後日の「萬葉集」講義の準備。

         

今日は、一昨日発送した「政治文化情報」が読者の皆様に到着したので、何人かの方から電話やメールをいただいた。ご激励やご感想や誤字脱字のご指摘であった。有難いことである。また、到着後すぐ読んで頂けることも大変に嬉しいことである。

             ○

毎日、大変忙しく過ごしている。会合も多いし、勉強もしなければならない。朝起きたらすぐに祝詞奏上と、神想観(生長の家で教わった精神統一)を行う。そして午前中は、大体父母のお世話と部屋の掃除などを行う。午後から、外出したり、原稿書きやら何やらが始まるのである。夜から深夜までも、原稿書きなどの仕事をしている。

幼い頃から、ものを書く事と本を読むことが大好きなので、原稿書きや勉強は苦にならない。趣味は読書と音楽鑑賞と歌唱そして旅行。夕方、近所の酒房か自宅で一杯やるのも楽しみの一つである。以前はカラオケスナックによく行ったが、最近は行かなくなった。家でパソコンの懐メロの動画を見ながら歌っている。人様に迷惑もかけないですむし、第一金がかからない。

最近は、父母の世話などがあり、なかなか旅行ができなくて困っている。近日、久しぶりに大和地方に行くことになった。古事記・日本書紀・萬葉集に登場する所を何カ所か巡って来たいと思っている。大和地方の友人の方がご案内して下さるというので大変有難い。

「旅は生ける学問なり」という言葉がある。まさしくその通りである。文献で分かったつもりでも、実際に歴史に登場する土地に行くと新たなる発見があるし、歴史の真実が分かることが多い。奈良・京都はまさに歴史の宝庫である。しかし、別に遠くへ行かなくても、見知らぬところに行くのが「旅」である。

| | トラックバック (0)

2009年4月20日 (月)

千駄木庵日乗一月十九日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後はある声楽家の方と懇談。

その後、在宅して、「政界往来」の連載原稿執筆・完成・送付。

             ○

四月十八日に行われた麻生太郎総理主催の「桜を見る会」で、麻生総理は、「ふるさとに はや桜咲く ゆえ問えば 冬の寒さに 耐えてこそあれ」と自作の和歌を披露した。

総理大臣が和歌を詠み、それを披露するというのは、最近では稀有なことである。歌の巧拙はともかく、麻生氏の姿勢は高く評価すべきである。

和歌は日本傳統文藝の中核に位置するものであり、日本民族の傳統精神は和歌によって継承されてきたと言って良い。古代においては和歌と祭祀と政治は一体不可分のものであった。『萬葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』を見れば明らかなように、本来日本の政治に携わる人々は、和歌を詠むことによって日本的情緒を養い、正しき政治を行おうと努力した。

しかるに、近年の政治家は、和歌を詠むことを忘却してしまった。中曽根康弘元総理が俳句をたしなむことは知っているが、最近の歴代総理で、和歌などの日本傳統文藝に親しんでいるという人を知らない。

麻生総理は、昨年九月二九日に行った「所信表明演説」で、「この度、國権の最高機関による指名、かしこくも、御名御璽をいただき、第九二代内閣総理大臣に就任いたしました。一一八年になんなんとする憲政の牽制の大河があります。…統治の伝統があり、…その末端に連なる今この時、わたしは、担わんとする責任の重さに、うたた厳粛たらざるを得ません」と述べた。

麻生氏は、天皇国日本の総理大臣としての矜持と自覚を表明し、天皇国日本の統治の伝統の継承を誓ったのである。

コラム欄の「政治家・官僚の質の低下を憂える」と題する拙論でも書いたが、昭和二十七年十一月十日、今上天皇が立太子の礼の時、吉田茂総理大臣は寿詞(お祝いの言葉)で、自らを「臣 茂」と読み上げた。『占領憲法』に「主権在民」と規定され、曲學阿世の憲法學者には「日本の元首は内閣総理大臣だ」などと論ずる輩もいるのに、吉田氏は天皇の臣下としての自覚と矜持を持っていた偉大なる政治家であり、まさに昭和の忠臣と言って良いであろう。

現行憲法の制約下ではあるが、麻生氏はまさに吉田氏の血統だけでなく、伝統尊重の心、尊皇精神も継承していると思う。 今の政治家、しかも有力政治家と言われる人におかしなのが多くなっている。そうした中にあって、麻生氏の姿勢は評価されるべきと思う。

|

2009年4月19日 (日)

千駄木庵日乗四月十八日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

母の介護保険要介護更新の調査員の方来宅。母と小生にいろいろ質問をして帰る。

午後は、「政治文化情報」発送作業。発送完了。購読者の皆様には月曜日にはお届け出来ると思います。

その後は資料の整理。

       ○

明治維新について色々な論議が行われている。古代日本における、民族の全体性は、自然神であると共に祖先神である天照大御神をはじめとする八百万の神々に対する崇敬の心が基本となっていた。それは日本民族が自然を崇め祖靈を尊ぶという精神が強かったからに他ならない。そして神々の祭主が、天皇であられる。そうした古代から続く日本の統一性・全体性が国史の展開を通じて活き続けているのである。

明治維新は尊皇攘夷という形に現わされた国民的自覚によって行われたが、この国民的自覚は日本を神国とする神話の精神の復興にもとづき、この復興は氏神の氏神たる伊勢神宮の崇拝に根ざしている。古代における宗教的な全体性把捉が高度文化の時代になお社会変革の動力となり得たというような現象は、実際、世界に類がないのである。祖先神たる天照大御神は神として神社に祭られると共に、天皇がその地上におけるご代理としての役目を果たされた。明治維新を考える時、この点を正しく把握しなければならない。現象面のみをあげつらうだけでは、有史以来未曽有の変革だった明治維新を正しく理解することはできないと思う。

| | トラックバック (0)

2009年4月18日 (土)

千駄木庵日乗四月十七日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

このところ、父の容態が落ち着きません。精神的にも不安定になっている。何とか落ち着くように、訪問看護師さんや介護の方の協力を得て世話をしています。

午後からは、在宅して、「政治文化情報」発送準備。

         ○

小沢一郎氏が、なかなか民主党代表を辞任しない。民主党に政権を取らせないための深謀遠慮なのか思うくらいである。しかし、小沢氏が辞任しないのは、ここで辞任すると政治生命を失うからである。要するに彼は色々ご立派な事を言っているが、権力に対する執着と自民党への怨念に凝り固まった人物なのである。自民党にとって代わって自分が権力を掌握したい一念なのだ。自民党側は、小沢氏が辞任しない方が選挙に有利なので好都合であろう。民主党という政党が政権を掌握することに、私は基本的に反対である。その理由は今まで色々書いてきたとおり国家基本問題で全くその姿勢がおかしいからである。

「週刊新潮」は私が毎週欠かさず買っている週刊誌である。新潮社は、日本を代表する出版社であり、良識的であると思って来た。しかるに、今回の「朝日新聞阪神支局銃撃事件」に関する報道というか、虚報は、まことにお粗末であった。「週刊新潮」の報道全体の信憑性も疑われるし、新潮者全体の出版活動の評価も下がる。

週刊誌は毎週出さねばならないし、購買部数も増やさねばならない。だから、色々な事を面白おかしくセンセーショナルに報道しなければならない。要するに営利至上主義が今回の虚報の原因である。言論とか報道などというのではなく、売文・虚報になっているのだ。

新潮社のみならず、日本のメディアの堕落と荒廃はどうしようもないところにまで来ている。こんな連中が「言論の自由」を云々する資格があるのか、他者を批判し攻撃し糾弾する資格があるのかと言いたい。

| | トラックバック (0)

2009年4月17日 (金)

千駄木庵日乗四月十六日

午前は、医師の往診あり。父母に付き添う。

その後、訪問看護師と共に父母のお世話。

午後二時より、豊島区立千早地域文化創造館にて、「萬葉會」開催。小生が、狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)と中臣宅守(なかとみのやかもり)の歌を講義。

狭野茅上娘子は萬葉後期を代表する女性歌人。激しい恋愛歌を残している。それが次の歌である。

  

君が行く道の長手を繰りたたね 焼き滅ぼさむ天の火もがも

「あなたが行く長い道を、くるくると手繰り寄せるようにして、焼き滅ぼしてくれる天の火がないだろうか。(そうすれば、あなたは私から離れて遠くに行くことが出来なくなるだろうから)」という意。

 狭野茅上娘子は女嬬(天皇のお側で奉仕する女官)であった。そういう立場の女性は、天皇の寵愛を受ける可能性がある。従って、臣下の男性と密かに恋愛関係になることを厳しく禁じられていた。結婚する時は、朝廷の許しを得なければならなかった。ところが狭野茅上娘子は中臣宅守と密かに結ばれてしまった。そのため宅守は越前に流された。この歌は、宅守が越前に出発する時に歌った歌。

激しい思ひをそのまま歌いあげた歌。女官をつとめる女性だけあって、天から降って来る火が愛する男が歩いて行く道を焼き滅ぼすという、神秘的・宗教的発想である。

中古時代の代表的な女性歌人・和泉式部には

「つれづれと 空ぞ見らるる 思ふ人あまくだりこむ ものならなくに」(『玉葉』所収)

「何となく空が眺められることよ。恋い慕っている人が天から降りて来ることなどありはしないのに。」という意。

という歌がある。

これも宗教的・神秘的発想の恋愛歌。「天降り」というのは神話的発想ですらある。わが国の傳統的信仰精神である「天上の世界への憧れの心」と、戀愛の心が一体となった歌。

狭野茅上娘子と和泉式部という二人の女性歌人の美しくも激しい恋愛歌は、不滅の価値を持って、現代にまで伝えられている。

帰途、講義に参加された二人の法律家の方と懇談。「萬葉集」・憲法問題などが話題になった。

帰宅後は「政治文化情報」の発送準備など。

         ○

森田健作さんは、千葉県知事当選後は、少しはしゃぎ過ぎたのではないだろうか。思想的には、我々に近いものがあると思われるので、心配である。

| | トラックバック (0)

2009年4月16日 (木)

千駄木庵日乗四月十五日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後二時より、三田で開催されたある会合でスピーチ。北朝鮮問題などを話させていただいた。

その後、御茶ノ水の茶房にて、出版関係の知人と懇談。ニコライ堂が春の日に照らされて美しかった。藤山一郎の「東京ラプソディ」を口ずさむ。というより小声で歌ったら、街行く人が私を見て微笑んでくれた。二番が「うつつに夢見る君の 神田は想い出の街 いまもこの胸に この胸に ニコライの鐘も鳴る」という歌詞である。昭和十一年の大ヒット曲。戦時色強まる時代であっが、こういう歌がはやったのである。戦前は暗黒時代であったなどというのは嘘である。学生時代、一緒に神田の古本屋巡りをした女学生は今頃どうしているであろうか。今もうつつに夢を見ているであろうか、それとも孫に囲まれて幸せに暮らしているであろうか、などと感傷的な気分なった。

夕刻、湯島にて、地元の先輩と懇談。若き日の思い出を語り合う。この先輩は、私と違って西日暮里にある某有名私立学校を卒業された方。多彩な趣味を持っているが、特に日本酒の事に詳しい。今日もおいしい日本酒(秋田の銘酒『両関』)を呑みながら語り合った。

この先輩は幼少の頃、今は開放されているが当時は進駐軍に接収されていた湯島にある「岩崎邸」に塀を乗り越えて中に入って行ったら、アメリカ人が射撃訓練をしていたので、びっくりして逃げ帰ったという。その頃の岩崎邸はキャノン機関(占領中の日本にあったGHQ参謀第2部(G2)直轄の秘密諜報機関)が入っていたのである。昔は何となく不気味な感じのするところであった。その後、司法・公安関係などの政府施設が入った。

帰宅後は、明日の「萬葉集」講義の準備。

           ○

今日は加瀬英明先生から、御父君・加瀬俊一氏の貴重な歴史体験が収録された資料を送って頂いた。加瀬俊一氏は、まさに昭和外交史の生き証人であられた。勉強させていただきます。

| | トラックバック (0)

2009年4月15日 (水)

千駄木庵日乗四月十四日

朝から父に付き添って病院に赴く。定期的な診察と治療。

昼は知人と懇談。

午後からは在宅して資料整理・書状執筆・諸雑務。

         ○

勉強会や会合に出ていると、色々面白い体験をします。ある勉強会では、開会時刻を過ぎ、講師がすでに演壇に座っているのに、主催者も司会者も、何処かに行っていて、会場の中にいませんでした。その講師の方は、「私は今日ここで講演をすることになっているのですが、司会もやるのでしょうか」と言われました。最前列に座っていた私が「もうすぐ来ます」と言って、司会者を呼びに行った事がありました。

ある勉強会では、司会者が「定刻を過ぎておりますが、まだ講師の方が来ておられませんので、しばらくお待ち下さい」と言いました。すると最前列に座っていた人が手を挙げて「講師は私です」と言いました。主催者も司会者も講師の顔を知らなかったのです。

           ○

「共産党の野坂参三元議長が除名される時、中央委員会が開かれ、齢百歳の野坂氏は車椅子で出席した。『野坂同志。あなたは山本懸蔵同志を密告しスターリンの粛清により死に至らしめたことにより除名する。このことについて何か意見はあるか』と聞かれたことに対して、野坂氏は何の反論もしなかった。そして中央委員全員が賛成して、野坂の除名が決まった」という話を聞いた。

伊藤律氏も野坂との権力闘争に敗れて共産支那の監獄に叩きこまれた。宮本顕治は同志にスパイの嫌疑をかけ、リンチし死に至らしめた。それを暴露した袴田里見を党から追放した。

共産主義集団の歴史は、粛清、虐殺、権力闘争、裏切り、冤罪の歴史である。これは共産主義という思想に原因があるとしか思えない。二十世紀は、共産主義による暴虐の歴史であったと言っても過言ではない。社民・共産両党は、その残りカスである。今なお共産主義に幻想を抱く人がいるというのは全く理解に苦しむ。

| | トラックバック (0)

2009年4月14日 (火)

千駄木庵日乗四月十三日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は資料の整理など。

夕刻、千駄木の地域包括支援センターに赴き、母の介護保険要介護更新の申請書提出。

午後七時より、ホテルサンルート高田馬場にて、「一水会フォーラム」開催。筆坂秀世元日本共産党政策委員長が講演し、「外の人は日本共産党を実像よりも相当大きく見ているというのが実感。鉄の紀律・民主集中制・革命政党・怖い組織という印象とはかけ離れている。公称四十万党員というのも怪しい。本当の党員数は、ナンバー4だった私も知らなかった。知っているのは議長・委員長・書記局長と党建設責任者。

『蟹工船』がよく売れたので、党員が増えているというのが不思議でならない。『蟹工船』には党の事は書かれていない。旧ソ連へのナイーヴな憧れが書かれている。新入党員には生活保護を受けたくて、共産党に世話になり、入党する人が多い。議員の後援会に入るような気持ちで入党する。

私が入党した頃は、『君たちが社会を動かす主役なのだ。地球の3分の1が社会主義国家になっている。これが社会進歩無の方向だ。』と言われた。単純だからそう信じ、歴史の進歩の方向に身を投じようと思った。党員は労働者を指導する前衛だと信じた。今の共産党は変化している。前衛政党とは言えなくなっている。

党費を払い、機関誌を購読し、活動している党員は二十万前後ではないか。党費納入率は六三・九%。党費集めに苦労している。ソ連は崩壊し、中国・ベトナムは資本主義化の道を歩んでいる。資本主義から共産主義に発展するとは言えなくなった。今の党員で社会主義社会を目指している人は皆無。

宮本顕治は『一九七〇年代の遅くない時期に民主連合政府が出来る』と言った。今の党の方針は『二一世紀の遅くない時期に民主連合政府をつくる』となっている。不破さんも僕もその頃は生きていない。その程度の展望しか示し得ていない。

市会議員クラスでも党の文献を読んでいない人が多い。党報告の情勢分析は我田引水。共産党にとって今の時代は難しい。しかし、共産党は企業献金をもらわず地域のために奉仕する政党としての存在意義はある。地方議会で真面目に活動しているのは共産党議員。自民党の地方議員が共産党議員の半分くらい活動すれば大したもの。

共産党内にいると思考停止に陥る。党中央が何を言うかを待っている。これが非常に怖い。党の方針は決まっているから歴史の勉強はしない。自分の頭で考えない。共産党ワールドで生きている。党にいた頃は、テレビの皇室番組が映るとチャンネルを変えた。今は違和感なしに見ている。自分でもこの変化に驚いた。党を辞めて良かったと負け惜しみではなくしみじみ思う。

今の若者がなぜ共産党に入るのか不思議。世の中は白か黒かではない。灰色もある。度量が共産党にあれば幅広い国民の支持が得られる。

共産党は高学歴の人が作った。宮本・不破・志位は東大卒。上から作る政党であり、下から作る政党ではない。理論がない人は軽く見られる。私のような高卒の叩き上げが政策委員長になったのは珍しい。

共産党員は『社会主義社会をつくるのが歴史的使命労働者階級の前衛』というエリート意識を持っている。エリート意識と自己犠牲・献身的姿勢は表裏一体。そういう政党が権力を握ると、中国や旧ソ連のように『党員にあらずんば人に非ず』という国になる。

派遣労働者を共産党は相手にしていなかった。『ルンペンプロレタリアは最後に裏切る、革命は組織された労働者が行う』と思っている。党員の高齢化は相当深刻。平均年齢は五〇歳を超えている。」と語った。

終了後、懇親会。

            ○

脱党した共産党最高幹部の話を聞くのはこれが二回目である。一回目は、はるか昔、昭和五十年代前半だったと記憶する。戦前の共産党の指導者で後に転向した鍋山貞親氏と昭和五十年代前半、鍋山氏が亡くなる直前に、鈴木邦男氏と一緒に事務所を訪ね、いろいろ話を聞いた。その内容は全く覚えていないが、鍋山氏が「共産党を叩く」という本を出版した直後だった。その本は勉強になった。

共産党内部にいた人の共産党批判はなかなか勉強になる。内部にいた人、しかも幹部は、共産党の弱点・痛いところ・欠陥を良く知っている。こういう人の批判が共産党にとって最も嫌なことであり、脅威であろう。

地方議会での共産党勢力はまだまだ大きい。地方分権と言われる時代においてこのことは重大である。教育・危機管理・福祉など極めて重大な問題が地方議会・地方行政で決められるようになりつつある。地方議会で共産党などの左翼勢力が、日本の麗しい傳統を破壊する策謀を行っている。共産党を決して侮ってはならない。

| | トラックバック (0)

2009年4月13日 (月)

千駄木庵日乗四月十二日

未明「政治文化情報」の原稿完成、送付。

午前は父母のお世話。

午後からは在宅して資料の整理など。

            ○

歴史の見方というのは色々ある。明治維新そして維新後の近代化について、色々な論議がある。薩長藩閥政治に対する批判は多くの人々から出されている。私が好きな作家である永井荷風の近代批判は、すさまじいまでの反薩長政府に貫かれている。荷風は、明治新政府を「足軽政府」と罵り、「薩摩長州は実行不可能な攘夷を言い立てて幕府を追い詰め権力を奪取した」と断定している。

たしかに薩長が絶対的正義であり、徳川を絶対的な悪とすることはできない。また維新変革の過程のみならず、近代化の過程に於いて、色々な矛盾や非道なこともあったであろう。

私は、生まれも育ちも東京である。父は徳島から上京して来た人だが、母方は関東の人間である。荷風の言うことに共感する部分もある。

しかし、やはり徳川幕藩体制を打倒し、天皇を中心として国家体制をつくり、近代化を推し進めたことは否定することはできないと思う。正しかったと思う。

日本国は神代以来、天皇が統治される国である。中心がしっかりと確立されていなければ、欧米列強の東亜侵略の危機を打開し統一と団結と安定を保つことはできなかったに違いない。京都御所に天皇を押し込め、徳川氏が覇者として政治の実権を握っていた体制、すなわち国家の中心が二つあるかの如き体制は打倒されなければならなかった。

徳川将軍家は、京都の朝廷の権威を借りて、自己の権威を確立した。徳川家康を東照大権現と称し、家康を祭る神社を東照宮と称したのは、明らかに、日本天皇の神聖権威の模倣である。

しかし、その権威では国家的危機を打開することは出来なかった。神代以来天皇の神聖権威を精神的基盤としなければ、国家的危機を打開できなかった。だからこそ「尊皇攘夷」というスローガンで、国民が一致結束したのである。

明治維新は、無血革命ではなったが、フランス革命、ロシア革命などの外国の革命と比較すれば殆ど「無血」と言って良いのではないか。維新変革は政治闘争・権力闘争・武力闘争の側面がある。色々詳しく調べれば、薩長側にも非があったのは致し方のない事と思う。そうした薩長批判は共感することも多い。とくに松平容保及び会津藩は気の毒であった。

しかし、私はどうしても納得ではないのは、井伊直弼を高く評価する説、錦の御旗はニセモノだったという説である。さらに許し難いのは、ここに書くのもはばかられるが、「孝明天皇暗殺説」である。これらの説に対しては、徹底的に反論しなければならないと考えている。

『文藝春秋』今月号に、半藤一利氏の「明治維新は非情の改革だった」と題する論文が掲載されている。まだ精読は出来ないが、「薩長=開明派、幕府=守旧派はという図式は間違へ、維新の最高指導者たちは『尊皇攘夷』など信じていなかった、明治維新は薩長による政権強奪である」ということが論じられている。

井伊直弼などの幕閣が、幕藩體制維持のために反動的政策をとった事がかえって維新を早める結果となったのであり、井伊直弼が主導した幕閣が開明派だったなどということはあり得ない。

井伊幕閣が勅許を得ずして開國したことが明治維新の発火点になったのであるから、維新を目指した人々(水戸藩を含む)が尊皇攘夷を信じていなかったなどということはない。

維新は旧體制の打倒であるから、政権強奪と言っても全く間違いではない。行き過ぎもあれば残忍酷薄なこともあったてあろう。それは新政府方も旧幕府方もお互いの事であって、親政府方のみを責めるべきではない。西南雄藩が新政府の主導権を握ったのは彼等が維新の推進力だったからであり、政権強奪と決め付けることはできない。新政権には旧幕臣も多く参加している。

半藤氏は、吉田松陰そして松陰に大きな影響を与へた水戸學などの江戸期における尊皇思想の高まりをあまりにも過小評価し、明治維新の粗探しに躍起になっている。

| | トラックバック (0)

2009年4月12日 (日)

千駄木庵日乗四月十一日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。村井友秀防衛大学校図書館長が講演し、「東アジアは基本的に平和な地域。北朝鮮以外の東アジア各国が政権を維持できる理由は経済発展。経済発展しようと思うと戦争は出来ない。

北朝鮮と中台問題を除いては、東アジアは平和な地域。今回の北朝鮮の実験はロケットとしては失敗、ミサイルとしては成功。

北朝鮮は嘘ばかりついている。そういう国と交渉で何かを決めるのは無理。

中国のアイデンティティは大国中国の実現。これが国民的コンセンサス。中国以外の国連常任理事国は全て空母を持っている。空母を持って脅威にならない。十九世紀中頃以前の中国があるべき姿と思っている。世界のGDPの三〇%を中国が占めていた。今のアメリカ以上の超大国になることを中国は目指している。大国としてのシンボルは軍事力。

中国は『弱い中国は災害を招く』と思っている。欧米の中国侵略や日中戦争は中国が弱かったからだと思っている。日本は『強い日本は災害をもたらす』と思っている。

毛沢東時代は、弱い中国が外国の侵略に対抗するには、安い人件費で人を集め、人民の海の中に敵を埋める作戦。これはコストはかからないが犠牲は大きい。核兵器はコストがかからなくて効果が大きい。

戦争に勝つとは、耐えることができる以下の段階で戦争が終わるということ。敗戦とは、損害に堪えられなくなった状態で戦争が終わるということ。

中国のICBМがアメリカに届くようになって、中国はアメリカに対して抑止力を持った。中国のアメリカ攻撃は大陸間弾道弾で行う。ミサイルの燃料は発射する直前に入れる。最低二時間かかる。アメリカは発射の前にミサイル基地をB2爆撃機で先制攻撃を行う。中国にはアメリカを攻撃する手段はない。

人民戦争は国内を完全破壊する。今の中国は経済発展しているのでこれは出来ない。ミサイルは台湾攻撃のために配備した。弾道ミサイルを防ぐ手段は台湾にはない。故に台湾は中国に一方的に叩かれる。台湾は、ミサイル防衛機能を発揮できない。それが台湾人の心理に大きな影響を与え台湾独立運動が低迷している。

台湾軍トップの殆どは統一派。高官のアイデンティティは中国大陸にある。外省人の比率が非常に高い。国防省のトップは民進党でも、実際に動く軍が民進党の命令を聞くか疑問。台湾に供与した軍事技術が中国に渡ることがアメリカにとって脅威。

北朝鮮は世界でもっとも悪質な独裁国家。国家の一番大事な仕事は国民を守ること。軍と安保の民営化は出来ない。ビジネスが死ぬことは出来ない。その国家の一番大事な仕事を北朝鮮はしていない。国民の数十万が餓死している。強制力のみによって統治している。軍と警察で全てをコントロールしている。

権力維持のために軍と警察を強化する理由づけが外敵の存在。従って北朝鮮は朝鮮半島が安定しては困る。北が滅茶苦茶な事をするのは、政権強化のため。

超三流大学以外の大学院生なら核兵器を作れる。銃は弱者が自分の身を守るための道具というのがアメリカ人の考え。アルカイダが核兵器を持つことがアメリカにとっての脅威。

日中関係は対等で安定させるしかない。日中間の軍事バランスを中国に有利にしないようにする。そのために具体的に何をすべきか。

空母は動く滑走路。大した技術は要らない。複数の空母を運用した国は日本とアメリカのみ。制空権が取れない所で空母は運用ではない。巡航ミサイル搭載の原子力潜水艦配備に力を入れる。

日本の強いところを積極的に相手に見せることが抑止力になる。空軍は戦闘機の数の勝負になる。それがランチェスターの法則(軍の戦闘力=武器性能×兵員数の二乗)

台湾問題解決の国際社会の共通認識は、台湾人の人権を守ること。台湾の将来は台湾人の意見によって決める。台湾は台湾独立派が十パーセント、統一派が十%、残りが現状維持という。馬英九総統は『独立しない、統一しない』と言う。こういう国をどうやって支援できるのか。東チモールはインドネシアから独立を目指している。台湾は何を支援したらいいのか分からない。正名運動で台湾という名称に変えようしたが、今はまた中華に戻っている。

中国軍は党の軍であって国軍ではない。軍人は自分の国を愛し、自分の国を守るために戦う。しかし中国は党を守れという。中国軍の言う人民とは共産党員。天安門事件でそれが証明された。人民解放軍は中国人と戦って来た。

国家が発展して来ると、軍人たちは自分たちが守るのは党ではなく国家だという意識になって来た。中共支配者にとってこれが怖い。若い軍人には中国軍は国軍であるという人が多い。どんどん党に対する忠誠心は下がる。帝政ロシアの軍がそのままソ連の軍となり、一九三〇年の大粛清で多くの将校が殺された。ソ連崩壊の時、ソ連軍は共産党を全く助けなかった。

中国のミサイルの方が北朝鮮のミサイルよりも脅威。北のミサイルは核の党搭載はまだ無理。数千人の人が死んだら降伏すると日本が言ったら北は攻撃する。何万人死んでも日本は戦うという気概を見せれば攻撃できない。日本人のガッツの問題」と語った。

村井友秀氏の講演を聞いたのはこれで二回目だが、論理とも明晰、情報豊富、そして話が面白い。ともかく日本国民は国を守る気概を持たなければならない。私は、日本の安全と独立と国民生活を守るためには核武装は不可欠だと思う。

今日は奥野誠亮先生、板垣正先生も来ておられた。本当にお元気なお姿に接するのは嬉しいことである。

午後六時より、新宿にて、「鹿島政晴・近藤勢一・若島和美三氏の還暦をお祝いする夕べ」開催。横山孝平氏が司会。藤元正義・阿形充規・山口申三氏そして小生などが祝辞を述べた。小生は例によって『元禄名槍譜・俵星玄蕃』を熱唱。この三氏は、長年にわたって民族運動に挺身して来た方々で苦労もされてきている。本当に多数の同志が党派を超えて集まった。

この後、数人の同志と懇談。

帰宅後は、未明まで原稿執筆。

| | トラックバック (2)

2009年4月11日 (土)

千駄木庵日乗四月十日

午前は、父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

昼は、北海道から上京された知人と懇談。

午後は、天皇皇后両陛下御結婚満五十年一般参賀に赴く。坂下門より皇居に入り、宮内庁庁舎前の記帳所で記帳した。そして桔梗門より退出した。

若者たちや外国の方々も沢山記帳に来ていた。

帰宅後は原稿執筆。

           ○

五十年前の昭和三十四年四月十日は、今日と同じくよく晴れた日であった。桜の花が咲いていたのを覚えている。私は中学校一年生であった。御成婚に対する祝賀ムードは全国民的な盛り上がりであった。子供心にも国民が如何に皇室を敬愛しているかを実感した。

前日の四月九日、学校の担任の先生は明日が休日となることを生徒に言わなかった。それほどに日教組の偏向教育は徹底していたのである。勤評闘争もあったし、次の年は第一次安保である。左翼革命運動花盛りという時代であった。しかし、そんな事とは関係なく、日本国全体が明るいムードに包まれたのが、当時の「皇太子殿下御成婚」であった。華族・貴族からではなく、一般の家庭から皇太子妃殿下が選ばれたことに、国民はむしろ喜んでいたと思う。

私は皇室ある限り、日本は安泰であると固く信じる。国民こぞって、皇室の御安泰と陛下の御健康を祈り奉るべきである。

| | トラックバック (0)

2009年4月10日 (金)

千駄木庵日乗四月九日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後からは在宅して原稿執筆。

朝日新聞社から、「週刊朝日」と「アエラ」の今週号を寄贈して頂いた。どちらも「天皇皇后両陛下ご成婚五〇周年記念号」となっている。しかし、寄贈して頂いてこんなことを書くのは甚だ心苦しいのだが、発行日を、西暦を主にして元号を括弧の中に書くようにしたのは『朝日新聞』が一番先であった。また『朝日新聞』本紙は皇室への敬語も一切使っていない。このように『朝日』は私に言わせれば、反皇室・反日本的姿勢の新聞である。

朝日新聞社は何か皇室に慶事など重大行事があると、『御写真集』や特集を組んだグラフ雑誌などを発行する。これは『朝日新聞』が皇室尊崇の念を持っているのではなく、営利至上主義に基づくものであると考えざるを得ない。それとも『朝日』本紙と朝日新聞社が出している雑誌とは姿勢が異なるということなのだろうか。

マスコミが皇室への敬語・尊敬語の使用を止めたのは、國民の皇室への尊崇の心を喪失せしめるための策謀であると私は考える。「天皇皇后両陛下」「皇太子同妃両殿下」と書くべきなのに、「天皇ご夫妻」「皇太子ご夫妻」と書いている。ひどいのになると「天皇夫妻」と書いている(『週刊現代』など)。

日本國存立の基礎は、神聖君主・天皇の御存在である。日本民族が天皇及び皇室を尊崇する精神を喪失し、天皇の神聖性・尊厳性が冒される時、日本國は崩壊の危機に瀕する。皇室の危機はとりもなおさず國家の危機である。

| | トラックバック (0)

2009年4月 9日 (木)

千駄木庵日乗四月十八日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は『月刊日本』の連載原稿執筆・完成・送付。

午後六時より、麴町にて、「日本再生同志の会役員会」開催。中村信一郎氏が司会。小田村四郎会長・加瀬英明副会長が挨拶。

西村眞悟衆院議員が「小沢一郎が辞めないのは好都合。民主党政権が実現せず、国民のためになる。北朝鮮非難決議に反対した社民党とは連立は組めないだろう。『生活第一』には『国家』が無い。『生活第一』より『国防第一』でなければならない。マネーゲームではなく、ものつくり・米つくりの日本をつくるべし。日本は最終的には再生の方向の近づいているのではないか。」と語った。

この後、役員の一人である三宅博八尾市議が、衆院選立候補の挨拶を行った。そして、今後の活動について全員で討議。

帰宅後も原稿執筆。

           ○

西村氏の「『生活第一』には『国家』が無い。」という主張は全く同感である。小沢一郎氏は、「国民は目先のことしか考えない、国民は馬鹿だ」と思っているからこういうことを言うのである。確かに国民生活の安定と向上は政治の使命であり責任である。しかし、それは、国家の独立が大前提である。小沢氏には、自民党に対する怨念しかない。何がなんでも、自民党政権を打倒し、権力を手にするためには、國體破壊を最終目的とする政党、北朝鮮非難決議に反対する政党とも連立しようなどいう小沢氏の「生活第一」は欺瞞であり、危険である。

自民党の坂本剛二組織本部長が「北朝鮮は核を保有している。日本も『核を保有する』と言ってもいいのではないか」と述べたことに対し、山崎拓・前副総裁は「『日本も核武装して北朝鮮に対抗しよう』という意見が、公然と党の会議で言われることは非常に憂慮すべきだ。極端に言えば人類を破滅に導く議論だ」と強く批判した。

これは全くおかしな発言である。世界の大国は殆ど核武装している中にあって、何故日本の核武装だけが、人類を破滅に導くことになるのか。理解に苦しむ。山崎氏はかねてより、北朝鮮とは格別の関係にあると聞いている。山崎氏への監視を強めねばならない。ともかく、今の政治家、しかも有力政治家と言われる人におかしなのが多い。

| | トラックバック (0)

2009年4月 8日 (水)

千駄木庵日乗四月七日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後からは在宅して原稿執筆。

           ○

最近寄贈していただいた書籍を紹介します。

南出喜久治氏著『占領憲法の正體』(国書刊行会刊) 著者より

松浦芳子様『親子でつくる教育ぬりえ』(はあもにい教育研究会刊) 著者より

ワンカール氏著『タワンティンスーユの闘い インカの抵抗五百年史』(面影橋出版) 面影橋出版代表森洋氏より

ご寄贈いただきました方々に心より感謝申し上げます。

            ○

宗教教同士の対立と抗争がどれだけ多くの人々を殺し、人類に生き地獄の苦しみに落とし込んだか。宗教とは人々に安心立命・真の幸福とやすらぎを与えるものであるはずなのだが、宗教の歴史は逆に人類に不幸と殺戮を与えていると言える。

 

わが国の国旗は日の丸である。わが国の国旗は太陽を形どっている。英語では、「the risingsun flag 」といわれている。わが国の伝統信仰たる神道は、太陽の神であられる天照大神を最尊・最貴の神と仰ぎ、皇室の御祖先神として崇めている。

                   

日本神話を拝すれば明らかなように、天照大神は、唯一絶対・全知全能を誇る神ではない。八百万の神といわれる日本の神々の使命・性格を生かし高める神である。一神教の神のような裁きの神、妬みの神、復讐の神ではない。

日本神話では天地自然や人間は唯一絶対神によって造られた存在ではない。人も国土も君主も伊耶那岐命・伊耶那美命二神から生まれ出た存在である。

さらに神の御命令によって地上に天降られた邇邇藝命の最大の御使命は、地上を瑞穂の国すなわちみずみずしい稲の穂が稔る国にするというきわめて平和的な信仰である。邇邇藝命という御名には、稲穂のにぎにぎしさを讃え稲穂に籠る霊への信仰が内包されている。

生命の永遠の循環と共同体の相互扶助を身を以て体験する稲作生活から生まれた規範を大切にする日本民族の祭祀に、言葉の真の意味における平和の姿を見出すことができる。 それは日本神話の言葉を以て言えば、「高天原を地上に実現する」ということである。この精神を発展させて、全世界を農作の栄える国とするという使命を日本が果たすべき時が来たといえる。

お互いの神を排斥合うのではなく、同じ天地の神として尊重し合う精神を持たなければ宗教戦争は終焉を迎えない。否、終焉を迎えないどころか人類を滅亡に追いやる危険さえ含んでいる。日本伝統信仰の自然崇拝の精神こそが、一神教同士の闘争による滅亡の危機を救う原基となると信ずる。

| | トラックバック (0)

2009年4月 7日 (火)

千駄木庵日乗四月六日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後からは在宅して「政治文化情報」の原稿執筆など。途中気晴らしに、近所の須藤公園と林町公園に赴き、満開の桜を見る。

須藤公園は、小生の幼い頃からの遊び場である。加賀藩の支藩の大聖寺藩(十万石)の屋敷跡。その後、長州出身の政治家品川弥二郎の邸宅となり、明治二十二年(一八八九年)に実業家須藤吉左衛門が買い取った。昭和八年(一九三三年)に須藤家が公園用地として東京市に寄付、昭和二五年(一九五〇年)に文京区に移管された。

高低差のある台地と低地を巧みに生かした公園。樹木も多く森のような感じでもある。滝があり、池があり、弁財天がまつられている浮島がある。規模はそれほど大きくはないが武家屋敷の面影を残している。私はこの庭園を駆け巡ってよく遊んだ。

近くに前田藩邸(今日の東大)があったので、前田藩の支藩の屋敷が作られたのであろう。支藩と言っても十万石という大大名である。

品川弥二郎は長州藩士にして、吉田松陰門下。松陰逝去後、遺志を継承して尊皇攘夷、倒幕運動に邁進し、薩長同盟成立に尽力。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。戊辰戦争の際、新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」(「宮さん宮さん」)の作詞者という。維新後は、内務大臣・枢密顧問官。九段坂に銅像が建てられている。

維新後、かつての維新の志士たちは、旧幕府時代の大名屋敷に入った人が多かった。こうしたことが、「維新は権力の移動にすぎない」という批判が起こる原因の一つであろう。品川弥二郎などはまだ良い方で、山縣有朋は、目白に広大な屋敷(今の椿山荘)を建てた。

師である吉田松陰は「身はたとへ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という辞世の歌を遺したが、権力者になった門下生は、武蔵野の野辺に金殿玉楼を築いたと言っては言い過ぎであろうか。今、吉田松陰に関する原稿を書いているので余計にそう思う。しかし、こういう批判は現代に生きる者の感覚であって、当時としては左程問題にはならなかったのかもしれない。

夜も原稿執筆。

| | トラックバック (0)

2009年4月 6日 (月)

千駄木庵日乗四月五日

未明、父の容態に変化があり、看病。一緒にいる母も動揺するので、大変である。何とか持ち直す。

午前は、看護師の方と共にも父のお世話。

北朝鮮のミサイルがわが国上空を通過したという。メディアはこのことを大々的に取り上げている。わが国の防衛力整備・増強に反対し、イチャモンをつけ続けて来た偏向メディアが危機を煽るのは一体どうしたことか。

政府は国連安保理事会に提訴するとか、色々言っている。かつてコマーシャルに「臭いトイレは元から絶たなきゃ駄目」というのがあったが、北のミサイルの脅威を払拭するには、発射基地を破壊するのが最も効果的なのだ。かつてアメリカがパナマに軍を派遣し國家元首・ノエリガを麻薬の不正浄化や在パナマ米軍兵士の殺害、選挙結果の不履行を理由に逮捕した。わが国もわが国国民を拉致し、覚せい剤をわが國に密輸し、わが国に対して数々の不法行為を行ったことを理由に、わが国の軍を北朝鮮に派遣して金正日を逮捕することもできるはずである。

午後は、地方から久しぶりに上京された友人を桜花爛漫の上野寛永寺・谷中霊園に案内する。お日柄も良く、満開の桜が見事であった。

東叡山寛永寺は、本堂の根本中堂が開かれていて、上がることが出来た。須弥壇に安置されている本尊・薬師瑠璃光如来に拝礼。徳川将軍家の菩提寺なので、屋根には金色の葵の御紋が燦然と輝いている。滅び去った徳川幕府の昔日の栄華を偲ばせる。

本尊の横に、今上陛下の萬壽無窮を祈り奉る「今上天皇寳代」が安置されていた。また「案内書」によると、寛永寺開基の天海上人が徳川家光にはかって刊行した「一切経」には「東照権現 倍増威光」という文字より先に「今上皇帝 玉體安穏」と記されていることが分かった。徳川幕府には、朝廷を敬う心があったということである。

この後、徳川慶喜・松平確堂(津山藩主、十一代将軍家斉の十六男。静寛院宮様(皇女和宮様)守衛、徳川家達後見人)・三木武吉・来島恒喜・渋澤栄一の墓などを巡る。

夕刻、その友人たちと懇談。

帰宅後は、資料検索・書状執筆・諸雑務。

| | トラックバック (0)

2009年4月 5日 (日)

千駄木庵日乗四月四日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は諸雑務。

午後六時より、神田学士会館にて、「憲法懇話会」開催。

高乗正臣氏が座長。高乗智之氏が「筧・三潴憲法学から見た教育権の法理」と題して研究発表し「学校教育の内容決定権は、国家にあるのか、国民にあるのか、現場の教師にあるのかは、学問上の論争というより政治的争いになっている。教育・学問・文化・芸術に関する分野は、政務法としての憲法の分野ではない。

不文法はデモクラシーの基礎。国民教育の土台は自主的普遍我。自主的普遍我とは『誰にも支配されない過去・現在・未来にわたる永続性』という意。

権力作用を美化する役割を憲法は持っている。戦後憲法学は人権保障に重きを置き、國體護持は軽視されている。国の統治権力作用の組織や権限を定めた憲法にはおのずから限界があり、その憲法によって創設された権力機構にも限界がある。成文憲法は立国の理想目的に抵触することはできない。国会における『教育勅語』の失効決議は間違い。

立国法に基づく統治行為が教育。『国家に教育権がある』という場合は国家とは権力機構ではなく、立国法にあるととらえるべし。権力の行使も権利の行使も共通の国民道徳の自覚に基づいたものではなければならない。現実の国家機関たる立法・行政機関にはその国家が歴史的に培ってきた精神的または道徳的伝統を否定したり変更したりする権限はない。」と語った。この後、質疑応答・討論が行われた。

帰宅後は、原稿執筆の準備。

          ○

筧・三潴憲法学で言われる「自主的普遍我」「立国法」とは、「天皇を祭祀主と仰ぐ共同体」即ち日本國體のことである。日本國體精神に基づいて教育が行われなければならない。しかしそれは、権力行為ではない。自ずからなる国民精神を培うことであり、傳統を継承することである。

国歌君が代の斉唱・国旗日の丸の掲揚は、強制によって行われるべきではないということは正しいが、公教育の場においては国民道徳の涵養・伝統の継承・知能の啓発のために強制が行われることは当然である。強制なくして教育は成り立たない。九九を覚えるのも、漢字を覚えるのも、そして学校に登校するのも、強制である。国歌斉唱・国旗掲揚のみが強制されてはならないなどということはあり得ない。

| | トラックバック (0)

2009年4月 4日 (土)

千駄木庵日乗四月三日

午前は父母のお世話。訪問看護方と共なり。

午後は晴天であったので、息抜きのため、我が家近くを散策。谷中銀座という商店街を通り抜ける。近年よくテレビ・雑誌で紹介されるためか人出が多い。「夕焼けだんだん」というのをのぼり、諏方台通りを歩く。谷中銀座や日暮里駅前の喧騒が嘘のような静けさ。

諏方神社(諏訪神社とは書かない)に至る。御祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)。土御門天皇の御代の元久二年(一二〇五)創建。日暮里・谷中の総鎮守。高台にあり、境内から荒川区一帯が見渡せる。桜は八分咲き。このあたりは「谷中生姜」発祥の地という。

西日暮里公園に入る。道灌山と呼ばれ、江戸時代には景勝地として知られていたという。安藤広重の錦絵にも描かれている。わが家のそばのバス停留所はこの公園とは少し離れているのだが道灌山下という。ここから筑波・日光の山々や利根川まで眺めることが出来たという。今でもよく晴れた日には遠くに山並みが見える。また近くの富士見坂からは富士山も見える。上野山から飛鳥山まで続く景勝の地だったと思われる。すぐ下が西日暮里の駅。近所の女性の方が連れて来た兎と遊んでおられた。 また公園の隅にここを住処とする人のテントがある。この前来た時は、お仲間の方々と麻雀を楽しんでおられた。まことに風流である。

養福寺に参拝。このお寺は真言宗。本尊は如意輪観世音菩薩様。本山は大和の長谷寺。朱色の仁王門やしだれ桜もある。

本堂のそばには弘法大師像もある。わが家の菩提寺も真言宗であり、我が家がお護りしている観音堂の本尊も如意輪観世音菩薩様なので親しみを感じる。境内は実に美しい。少し大げさにいえば浄土に来たような心地がする。

スイスの山小屋風の茶房に入る。テラスで休憩。読書。今はウイリアムジェイムズなどプラグマチズムの原典を読んでいる。外国人が何組か来ていた。

日暮里駅前に戻る。桜並木がある。谷中霊園に入る。天王寺に参詣。谷中大仏(釈迦牟仁仏像。元禄三年(一六九〇)に鋳造建立されたというから、東京にある仏像では古い方である)に参拝。カメラを手にした人々や夫婦連れが多く歩いている。

出羽海谷衛門(十九代横綱・常陸山)、足立正聲(鳥取藩士。宮内省図書頭。そばに「男爵足立君墓碑銘」(侯爵池田仲博篆額・東宮侍講三島毅撰・正五位日下部東作書)が建てられている)、鶴田皓(あきら・佐賀藩士。大審院検事長、元老院議官。そばに「鶴田君碑」(司法大臣山田顕義篆額・大審院検事三島毅撰・元老院議官巌修書)が建てられている)、小平浪平(日立製作所創業者)、廣津柳浪(明治期の作家。尾崎紅葉の硯友社同人、自然主義文学勃興以前の最高の作家と言われる)、廣津和郎(柳浪の子。昭和期の作家)、鷲津毅堂(漢学者。永井荷風の母方の祖父)、日下義雄(会津藩士。日新館に学び戊辰戦争で鳥羽伏見の戦いで負傷、五稜郭の戦いで捕縛される。維新後何と井上馨の知遇を得、明治七年アメリカに長州藩から派遣される。帰国後、福島県知事・第一銀行取締役)、「小針重雄・三浦文治・琴田岩松・横山信六・天野一太郎合同墓」(「加波山事件」で処刑された人々の墓)などを巡る。

青山霊園は、どちらかというと薩摩・長州など西南雄藩出身の人々の墓が多い。つまり、明治新政府の高位高官の墓が多いということである。谷中霊園は、西南雄藩の人々の墓は比較的少ない。そして戊辰戦争やその後の反政府運動で非業な最期を遂げた人の墓がある。これは、徳川将軍家菩提寺寛永寺の近いためかあるいは、霊園整備の時期のせいかどちらかであろう。墓碑銘の文を書いた三島毅は、二松學舎の創立者。今は大きな墓碑銘や石碑が建てられることは少なくなったし、漢文を書く人も少なくなっている。たとえ建てられても、漢文ではなく、新仮名遣いの現代文が多い。何んとも悲しいことである。

帰宅後は、書状執筆など。資料整理・検索。次号の「政治文化情報」は、吉田松陰について書くつもりである。

         ○

「加波山事件」とは自由民権運動の激化した明治十七年の秋に起きた決起事件。加波山は茨城県桜川市と同石岡市の境に位置する標高七〇九mの。天狗が住むといわれる霊峰。

栃木県令を兼ねることになった福島県令三島通庸が、栃木県でも福島県と同様に自由党を弾圧すると共に、不況下の農民に労役を課して道路を建設しようとした。これに憤激した自由党員十六名(茨城県人三名、福島県人十一名、栃木県人一名、愛知県人一名、平均年齢約二十四歳)は、宇都宮の新県庁舎落成式の日に三島通庸らの暗殺を企てたが失敗、加波山山頂の加波山神社を本陣として、「檄文」を発し、さらに、真壁町の町屋分署を爆発弾で襲う計画を立てた。しかしすべて捕らえられた。これで茨城県下の自由民権運動は終わりを告げたといわれる。

決起参加者は爆弾を製造したり、豪商・警察を襲撃したためか、政治犯としてではなく、刑事犯・破廉恥犯として処刑されたという。しかしながら、「決起趣意書」(檄文)は次の通りであり、なかなか立派な文章である。

「抑も建國の要は衆庶平等の理を明らかにし各自天與の福利を均く享るにあり而して政府を置くの趣旨は人民天賦の自由と幸福とを扜護するにあり決して苛法を設け壓逆を施こすべきものにあらざるなり然而今日吾國の形勢を観察すれば外は條約未だ改まらず内は國會未だ開けず爲に奸臣政柄を弄し上聖天子を蔑如し下人民に對し収歛時なく餓莩道に横はるも之を檢するを知らず其惨状苟も志士仁人たるもの豈にこれ之を黙視するに忍びんや
夫れ大厦の傾けるは一木の能く支ふる所にあらずと雖も奈何ぞ坐して其倒るゝを見るに忍びんや故に我々茲に革命の軍を茨城縣眞壁郡加波山上に擧げ以て自由の公敵たる専制政府を顚覆し而して完全なる自由立憲政體を造る出せんと欲す嗚呼三千七百万の同胞よ我黨と志を同ふし倶に大儀に應ずるは豈に正に志士仁人の本分にあらずや茲に檄を飛して天下兄弟に告ぐと云爾
明治十七年九月廿三日                」

|

2009年4月 3日 (金)

千駄木庵日乗四月二日

午前は医師の往診があり、父母に付き添う。

昼は、知人と懇談。

午後は資料の整理など。

午後六時半より、文京シビックホールにて、「『アジア英雄伝』の出版を祝う会」開催。頭山興助・佐藤優・西村眞悟・小田村四郎・クリストファースピルマン(九州産業大学教授)・石平の各氏などが祝辞を述べた。伊達宗義氏の音頭で乾杯を行い、清宴に移った。そして著者の坪内隆彦氏及び出版元の藤本隆之展転社社長が謝辞を述べた。

立食パーティーであったため、祝辞を十分にメモすることができなかった。しかし、各氏の次の発言が印象に残った。

頭山興助氏「孫文がかつて日本に対して『東洋王道を歩むか、西洋覇道を歩むか』と問いかけたが、残念なことに、今日、中国が覇道を歩み、アジアに脅威をもたらしている」。

佐藤優氏「高天原を地上に持ち来たすことがアジア主義である」。

小田村四郎氏「チベット・東トルキスタン・内モンゴル・台湾が中国から独立を果たしてこそ、真の東アジア共同体が成立する」。

伊達宗義氏「総理の靖国神社参拝や教科書に対して内政干渉を許し、竹島や北方領土を奪われ、日本周辺海域が中国の軍事的脅威にさらされても、為す術のない日本は、真の独立国とは言えない」。

今日の祝賀会は内容のある祝辞が多くまことに有意義であった。アジアの一角に位置するわが国が、中華帝国主義とアメリカ覇権主義の狭間にあって、いかなる道を歩むべきか。まことに重大にして切迫した問題である。東洋王道・西洋覇道と言われるが、頭山氏の言われたごとく、今日アジアにおいて覇道を歩んでいるのが共産支那である。アジア解放のために戦った先人たちの偉業に学ばねばならない。

帰途、地方からわざわざ出席した同志に千駄木まで来て頂いて、数人の同志と懇談。

             ○

本日お会いした政界と法曹界のことに詳しい人物曰く「小沢のやっていることは典型的な土建屋政治。西松建設の小沢一郎氏側への偽装献金問題は、このままでは終わらないと思う。検察はしつこい。漆間発言は検察の捜査には何の影響も与えない。」と語っていた。そうあってほしいと思う。

またある政治評論家曰く「長野県知事の元秘書の自殺がこの事件の捜査に大きく影響している」。

| | トラックバック (0)

2009年4月 2日 (木)

千駄木庵日乗四月一日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後はある声楽家の方が来宅、懇談。

その後、在宅して資料の整理など。

         ○

今日お会いした声楽家の方は、毎月一回開催している歌の発表会で、和歌の名歌に曲を付けて歌っておられる。三月は、昭憲皇太后のお歌と大伴家持の歌を歌われた。今月は、どういう歌にしようかということを話し合った。季節感のある歌にしたいとのことなので、大伴家持の

「うらうらに照れる春日(はるひ)に雲雀あがり心悲しも独りし思へば」(うららかに照っている春の日の光にひばりが空に飛び飛び上がってゆく、しかし私の心は何となく悲しいなあ、一人でものを思っていると、というほどの意)

という歌が良いのではないかと申し上げた。明るい春の季節であっても憂愁に沈む自分を歌っている名歌である。やはり、家持は、人麿と共に萬葉集代表歌人である。人の心を打つ名歌を数多く詠んでいる。

「五・七・五・七・七」の短歌は、なかなか曲をつけるのが難しいとされている。「国歌君が代」は別格であるが、若山牧水の

「白鳥は 悲しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ」 

「幾山河 越えさりゆかば 寂しさの はてなむ國ぞ けふもたびゆく」

いざゆかむ 行きてまだ見ぬ 山を見む このさびしさに 君は耐ふるや」

の三首に、古関裕而氏が曲をつけた。昭和二十二年のことである。これは藤山一郎氏が歌ったと思う。この他には、短歌の歌曲はあまり聞いたことがない。それにしても、牧水の歌は素晴らしい。わたしは、近代歌人では、牧水・啄木と与謝野晶子が大好きである。

| | トラックバック (0)

2009年4月 1日 (水)

千駄木庵日乗三月三十一日

午前は父に付き添って病院に赴く。定期的な診察と治療。

午後からは、在宅して資料整理と書状執筆。

         ○

今日は新聞・雑誌の整理をした。『週刊朝日』二月二七日号の「自民党が必死に探す民主党スキャンダル」という匿名座談会で、出席者が「麻生政権成立と同時に官邸入りした漆間副長官がキーマンだろう。彼は、政治家気取りで事務次官会議も仕切っているようだから、率先して情報も集めている。…子飼いの警視庁公安部を使って河村官房長官のあら探しをやったため、いまなお長官としこりを残しているのは有名な話だ。」

「漆間副長官は『加判の列にある者の言葉重い』(主君の上意を執行するにあたって、署名・押捺を行う職権を有する重臣の言葉は重いからよけいなことを言ってはならないという意味であろう。加判の列のある者とは徳川幕府では老中のこと)なんて自ら言って、あちこちの官庁の手を突っ込んでいる。…総理の次席だと思ってるんじゃないの」

「民主党のマルチ疑惑を捜査させたのも漆間副長官だといわれる。その剛腕ぶりには驚くよ」

「いや、漆間副長官は民主党政権を見越しているから、そこまではやらんだろう」などと語り合っている。

このようなことが言われていたにもかかわらず、漆間氏は記者たちに言ってはならないことを言ってしまった。軽率という批判では済まされない。自分の権力に驕ったとしか言いようがない。権力の中枢にある者は、余程口が堅くなければならない。漆間氏の発言がなければ、検察批判もこれほど激しくはなかったに違いない。巨悪の摘発ももっと徹底的に行われたかもしれないのだ。その責任は大きい。

一方、小沢一郎氏は、今日の記者会見において、ふてぶてしい態度で、「政治資金の流れが公開されていれば、額は関係ない」などと言っていたが、とんでもない発言である。何度も書くが営利企業は、企業利益になるか、企業防衛に役立たない限り、ビタ一文の金も出さない。西松建設が小沢氏側に巨額の偽装献金を行ったことは、紛れもない事実である。これは徹底的に追及されるべきである。額は大いに関係あるのである。

|

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »