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2009年3月30日 (月)

千駄木庵日乗三月二十九日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は、ある方から招待券をいただいたので、日本橋高島屋にて開催中の『東本願寺の至宝展』参観。「再来年の宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌を記念し、東本願寺の至宝を一堂に展覧いたします。江戸時代を通じ4度の大火にあい、焼失と再建の歴史を繰り返した御影堂は1895年(明治28年)に現在の姿となりました。そこには、岐阜の別院から移築された円山応挙筆の金地水墨の作品をはじめ、京都画壇を代表する岸竹堂、望月玉泉らの襖絵が伝えられています。加えて今回は特別に、園林堂内にある棟方志功作の襖絵『天に伸ぶ杉木』『河畔の呼吸』を公開いたします。」(案内書による)との趣旨で開催された。


狩野元信、円山応挙らの江戸絵画と、望月玉泉らの近代の京都画壇の巨匠たちの作品、棟方志功の肉筆襖絵、幕末史、伽藍の再建・修復に関する歴史資料などを見る。近代の羽田月洲という人の「花鳥図」は大変見事であったが、羽田月洲はその後忘れ去られ没年不明である。こういうあわれな画家もいたのである。望月玉泉の「夜桜図/松・藤花図」の衝立画も素晴らしかった。幕末期東本願寺を宿舎にした徳川慶喜の書や書状なども展示されていた。

夕刻、新宿にて、ある武道家の方と懇談。水戸学・吉田松陰・大東亜戦争・武道・維新運動などについて有意義なお話を伺うことが出来た。

帰宅後は、書状執筆など。

              ○

今日の「東本願寺の至宝展」参観で初めて知ったのは、幕末期、第十四代将軍・徳川家茂が上洛した時、「神祇不拝」を原則とする念仏宗の本山・東本願寺に「東照宮御靈殿」建立されたことである。その鳥瞰図が展示されていた。

東本願寺は慶長七年(一六〇二年)徳川家康から京都・烏丸七条の地を寄進され、伽藍を造営した関係からか、徳川将軍家との関係が深かった。

家茂の後見職に任ぜられた徳川慶喜は、文久三(一八六三)年一月五日、将軍の上洛の準備のため入京し、ここを宿舎として京都での活動を開始した。慶喜は自家の歩兵部隊を東本願寺に駐屯させた。そのため、「禁門の変」では長州藩による攻撃の対象となり砲撃を受けて損害を被ったと伝えられる。

一方、西本願寺は西国に信者が多く、古くは豊臣贔屓、幕末は熱心な勤王派であった。また、西本願寺二十世宗主・広如上人は、黒船来航後の混乱にあった安政年間、尊皇攘夷の機運が高まるなかで、勤皇僧として著名であった周防の月性を重役に登用させた。また、文久三年(一八六三)に、朝廷に一万両を献納し、宗派全体に尊皇攘夷の徹底を諭す文を出している。

「禁門の変」で敗走した長州藩士、山田顕義、品川弥二郎らが西本願寺に逃げ込んで切腹しようとしたところを、変装させて落ち延びさせた。

同じ親鸞の教えを奉じながら、東西本願寺は対立関係にあったのである。

維新後、神仏分離・廃仏毀釈運動の高まった時、長州出身の政府高官が、仏教教団擁護の姿勢をとった原因は、「禁門の変」の時、西本願寺が長州藩士を助けたことが影響したのであろう。

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