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2009年3月20日 (金)

千駄木庵日乗三月十九日

午前は、父母の所に医師が往診。その後父母のお世話。訪問看護師と共なり。

午後一時半より、豊島区立千早地域文化創造館にて、「萬葉會」開催。小生が『萬葉集』巻十五に収められた遣新羅使の歌及び狭野茅上娘子の歌を講義。

この後、鶯谷駅にて知人と待ち合わせ。東叡山寛永寺に参拝。
厳有院霊廟(げんゆういんれいびょう・徳川幕府四代将軍徳川家綱の霊廟)常憲院霊廟(じょうけんいんれいびょう・徳川幕府五代将軍綱吉の霊廟。松竹梅、鳳凰等の彫刻が見事な門は国指定重要文化財)・根本中堂(本堂・本尊は薬師如来)、上野戦争碑記(明治四五年建立・阿倍弘蔵撰文。実際は明治七年に碑文は出来ていたのだが、新政府の意向により石碑建立は明治四五年になったという)などを案内する。

帰途、谷中にて懇談。

帰宅後は、「政治文化情報」発送準備など。

         ○

上野戦争は、新政府軍と彰義隊との戦いである。「上野戦争碑記」によると、彰義隊は、天朝に反逆するという意思はなく、朝廷を利用して徳川幕府を打倒せんとしている薩長二藩と断固として戦うという姿勢であったという。ところが、実際に上野山を攻めて来た新政府軍には、薩長などのいわゆる西南雄藩だけではなく、尾張徳川・水戸徳川・津・彦根という徳川御三家・親藩の軍も加わっていた。むしろこれらの藩が先頭をきって上野山に攻めて来た。その結果、徳川将軍家の菩提寺・東の比叡山としての権威を誇っていた東叡山寛永寺の堂塔伽藍の殆どは戦火で焼失してしまった。幕府存続を願った彰義隊の行動はかえって逆の結果を招いたと言えようか。悲劇の戦いであった。

この後、彰義隊の生き残りの一部は東北に逃れ、奥羽列藩同盟加わったという。奥羽列藩同盟はその盟主に輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王。東叡山寛永寺貫主)を推戴した。これについては色々な説がある。

徳川幕府は、朝廷との間で何か事が起こった場合の「人質」として、親王を寛永寺の貫主に戴いたとか、いざという時は、京都の朝廷に対抗して、輪王寺宮を天皇に推戴するつもりだったなどという説があるが、どこまで真実だかわからない。

しかし、徳川幕府が自己の権威づけに、朝廷を利用したたけでなく、将軍の墓を、上御一人の御陵よりも規模が大きいものにしたことは事実である。それは、京都泉涌寺に鎮まりまします徳川時代の御歴代天皇の御陵と、寛永寺・増上寺の歴代将軍の墓を比べれば明白である。親王様に徳川将軍家菩提寺の住職になっていただくなどというのは不孫・不敬の極みと考える。徳川時代は天皇中心の國體が隠蔽された時代であったことは事実である。

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