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2009年1月12日 (月)

千駄木庵日乗一月十一日

午前は母のお世話。

午後は諸雑務。その後、病院に赴き、父に付き添う。やや元気を取り戻し、ベッドの上に座ることができるようになる。また、病院の廊下でそろりそろり歩行訓練。退院後、車椅子生活にならないように祈る。

帰宅後は、書状執筆など。

        ○

昨日の午後、虎ノ門の大倉集古館で開催中の『追憶の羅馬展―館蔵日本近代絵画の精華』展を参観した。

案内書によると「1930年(昭和5年)、イタリア政府主催によりローマ市中心部の展覧会場Palazzo nazionale delle Esposizioniにおいて開催されました。大倉財閥を先代・喜八郎より引き継いだばかりの男爵・大倉喜七郎はこの展覧会を全面的に支援し、作品の画料をはじめとする膨大な経費をすべて負担しました。この展覧会には、横山大観が中心となり、当時の日本画壇を代表する日本画家たち総勢80名の手による大正末期から昭和初期の日本画168点が出品されました。…本展では、横山大観が日本を代表する作品として取り組んだ名作『夜桜』をはじめ、当館が所蔵するローマ展出陳作品27件を中心とした近代日本画のコレクションを展観します。」との趣旨で開催された。

当時のヨーロッパは、東洋文化とりわけ日本文化に対する関心が高まっていたらしい。大倉喜七郎が当時のイタリア首相ムッソリーニに、横山大観の絵を寄贈した縁で、大倉氏が資金を出し、イタリア政府の全面的な協力を得て開催されたという。横山大観の「瀟湘八景」、川合玉堂の「暮るる山家」「秋山懸瀑」、竹内栖鳳「蹴合」などの作品を見る。どれも、日本美術をヨーロッパの人々に理解してもらおうという、画家たちの情熱と言うか気概が込められた作品であった。ただ残念だったのはこの展覧会で、最も注目されている大観の「夜桜」が三月からの展示で、見ることができなかったことである。

イタリアとの友好関係は、文化・芸術においても深いものがあったということである。またムッソリーニは、戦後独裁者・ファシストと言われ、大変の評判が悪いが、日本文化の深い理解者であったようである。

参観後、庭園を散策。屋外展示品を見る。「大倉鶴彦翁之略伝碑」(元帥・陸軍大将・大勲位山縣有朋篆額、宮内儒員従三位・勲二等・文学博士三島毅撰、正五位日下部東作書、大正二年建)、「大倉喜八郎墓碑銘」(頼襄子戊撰文、宮中顧問官勲一等三島毅撰、正五位日下部東作書、大正五年建)などを仰ぐ。

三島毅は、漢学者にして小生の母校・二松學舎の学祖・創立者。 号は三島中洲(ちゅうしゅう)名は毅(き)、字は遠叔。天保元年、備中窪屋郡中島村(後の中洲町、現在の岡山県倉敷市中島)に生まれた。十一歳から学問を志し、十四歳で儒学者山田方谷の門に入り陽明学を学んだ。さらに斎藤拙堂のもとで見識を深め昌平黌において佐藤一斎に学んだ。三十歳の時、備中松山藩に仕え、幕府老中でもあった藩主板倉勝靜とともに激動の幕末を経験した。明治維新後、新政府の命により上京、新治裁判所長、大審院判事(現在の最高裁判所判事)大審院検事長を務めた。明治十年、「漢学塾二松学舎」を創設。多くの子弟を育成し、漢学・東洋学の発展に尽力した。のちに東京高等師範学校教授・東京帝国大学文科教授・東宮御用掛・宮中顧問官を歴任した。

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