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2008年11月26日 (水)

千駄木庵日乗十一一月二十五日

午前は父に付き添って病院に赴く。定期的な診察と治療のためなり。

午後は、谷中墓地散策。原稿書きが続いている時、気分転換にために、時々谷中墓地と谷中寺町を散策する。緑も多いし、由緒のある寺院もあり、勉強にもなる。桜の葉は殆ど散りつくしていたが、銀杏の黄葉が真っ盛りであった。

「羽峯南摩先生碑銘」を仰ぐ。三島毅(号・中洲。大審院判事・東京大学教授・大正天皇侍講・文学博士・二松学舎の創始者)撰。日下部東作(号・鳴鶴。近代書道の確立者の一人。二松學舎大学で書道の師であった石橋犀水先生は鳴鶴先生の孫弟子)書。

羽峯・南摩綱紀は幕末から明治にかけての儒学者。会津藩士。幼くして日新館で学ぶ。弘化四年、昌平黌に学ぶ。文久二年樺太警備や北海道東岸の幕府領代官を務める。慶応三年京都に行き、戊辰戦争時には大坂を拠点に幕府側につき諜報活動をし、維新後越後高田に謹慎となる。赦免後、京都府の学職、太政官、文部省を経て東京大学教授、東京高等師範学校教授。明治四二年、八七歳で逝去。三島中洲・重野安繹と共に明治三大漢学者と呼ばれる。

「大審院長玉野君碑」を仰ぐ。山田顕義(長州藩士、政治家、司法大臣・枢密顧問官などを歴任。日本大学創立者)篆額、大審院検事長・三島毅撰文。

玉乃世履(せいり)は、岩国藩出身。山田方谷・梁川星巖・斎藤拙堂に師事。初代大審院長、元老院議官。明治初期は、漢学者が判事・検事を務めたのである。道義精神に立脚した法律の条文を作るにもその法律の基づいた判断を下すにも、漢学が大事だったのであろう。もっとも江戸時代の学問は漢学が基本であったのだから、それは当然の事であったのかもしれない。

天王寺の谷中大仏(釈迦牟仁仏像)に参拝。

日暮里駅前の本行寺参拝。永井尚志(なおむね。幕末の幕臣。外国奉行・大目付・若年寄を歴任。徳川慶喜を補佐。函館戦争まで戦う。維新後は元老院権大書記官)、市河米庵(江戸後期の書家、漢詩人。幕末三筆の一人)、荻昌弘(映画評論家。二松学舎出身)などの墓を巡る。

日暮里の諏訪神社に参拝して帰宅。

谷中霊園には、幕末から明治・大正・昭和に活躍した人物が数多く眠っている。そのお墓を訪ね墓碑銘を読むと歴史の勉強になる。墓碑銘の文は、小生の母校二松学舎の創立者の三島中洲先生が書いたものが多い。最近は、漢文を書ける人が少なくなって、大きな墓碑銘が建てられることはなくなった。また、墓碑銘の書は日下部鳴鶴先生の書が多い。鳴鶴先生の學統をひく石橋犀水先生は、二松学舎で書道の教授をしておられた。

永井尚志は、三島由紀夫氏の母方の祖先である。永井尚志の養子である永井岩之丞尚忠の娘・夏子は平岡定太郎の妻であり、その孫が平岡公威、すなわち三島由紀夫氏である。

帰宅後は、明日の「萬葉古代史研究會」における講義の準備。

            

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