« 千駄木庵日乗八月三日 | トップページ | 千駄木庵日乗八月五日 »

2008年8月 5日 (火)

千駄木庵日乗八月四日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は、数人の同志と日暮里駅で待ち合わせ。谷中墓地へ。

来島恒喜之墓に参拝。

来島恒喜烈士は福岡県の人。玄洋社に入り国事に奔走。明治二十二年、外務大臣・伯爵・大隈重信は不平等条約改正を外国と交渉したが、譲歩し過ぎるとして世論の批判を招いた。同年十月八日午後四時、来島恒喜は、大隈外相が閣議を終えて霞ヶ関外務省に帰り来るを待ち受け、爆裂弾を投じて重傷を負わしめ、即時、皇城を拝したる後、正門左方の石垣に倚って携えたる短刀で頸を掻き切り、従容として自決した。享年三十二歳。

青山龍泉寺に於いて葬儀を行った後、二十二日、遺髪を谷中天王寺に葬り、遺骨は福岡に送って十一月一日福岡崇福寺境内の玄洋社墓地に葬った。

供花・供物・線香を供え、合掌して冥福を祈った。

続いて、石川県士族島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の六士の墓に参拝。

六士は、明治十一年五月十四日午前八時ごろ、東京麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸から赤坂仮皇居に参朝の途中の参議兼内務卿大久保利通を、紀尾井坂において斬殺した。ことが成就した後、島田氏らは大久保利通の「罪五事」を挙げた斬奸状を懐中にして自首した。審問の後、七月二十七日六名は斬罪に処せられた。

大久保利通は当時の最高権力者として「富國強兵」「殖産興業」「脱亜入欧」路線を強力に推し進めた。明治六年の政変から大久保の死に至る迄の数年間は、大久保を中心とした独裁政治と言って良かった。これを〈有司専制政治〉という。大久保利通は、「明治六年の政変」で、西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らを下野せしめた後、三条實美・岩倉といふ公卿勢力を擁し、大隈重信・伊藤博文・黒田清隆・川路利良らを手足とし、欧米の文化・文明を取り入れた近代日本の建設に邁進し、これに抵抗する勢力をあらゆる手段を用いて排除した。特に川路利良=警察権力を使い卑劣な手段を用いた挑発行為・密偵政治は多くの人々の憎悪を招いた。

大久保利通が第二維新運動の標的となったのは、直接的には大久保が西郷隆盛・江藤新平といった人々を卑劣な策略を用いて死地に追いやった後、専制的な寡頭政治を行なったことであろう。そして、大久保の政治(強権政治・欧化政策)が明治維新の理想を隠蔽する邪悪なものとされたからであろう。決して不平士族の暴挙ではない。詳しくは、コラム欄の「大久保利通斬殺事件(『紀尾井坂の変』)の意義と明治第二維新運動」をお読みいただきたい。

さらに、谷中全生庵に赴き、山岡鐡舟の墓に参拝。

この後、同志の方々と懇談。雷鳴鳴り響く中、談論風発。小生が、歌声を披露。(モンテンルパの夜は更けて、男一匹の歌、無法松の一生など数曲)

|

« 千駄木庵日乗八月三日 | トップページ | 千駄木庵日乗八月五日 »

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/42066004

この記事へのトラックバック一覧です: 千駄木庵日乗八月四日:

« 千駄木庵日乗八月三日 | トップページ | 千駄木庵日乗八月五日 »