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2008年7月11日 (金)

千駄木庵日乗七月十日

午前は父母の世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は、「終戦直後の歴史を尋ねる半日ツアー」(村田春樹氏主催)に参加。十二時半、第一生命館(本社ビル)の連合国軍総司令部(GHQ)跡地見学。マッカーサー記念室(マッカーサーの執務室・応接室跡)を見る。第一生命館は昭和二十年九月から同二十七年七月まで、連合軍に接収されGHQが置かれていた。執務室の広さは十六坪。ここに吉田茂総理(当時)などが訪れ、マッカーサーと討議し、その意向を聞いた。また、この建物で、「現行占領憲法」の草案が作られ、日本に押し付けられたのである。敗戦後の屈辱の歴史を刻む館である。

村田氏の説明によると、マッカーサーは、フィリッピンの軍事総督時代に巨万の富を築いたという。五十歳で米陸軍参謀総長に就任。この時の副官がアイゼンハワーで、後にマッカーサーを罷免したトルーマンは二等兵だったという。マッカーサーはアメリカによるフィリッピンへの植民地支配・搾取の張本人であり、彼こそ犯罪者である。日米開戦直後、本間正晴指揮下の皇軍によって、フィリッピンを追われた。戦後その報復で本間雅晴中将を処刑した。

また、彼がトルーマンに罷免され帰国する時、畏れ多くも、昭和天皇のお見送りを望んだが、宮内庁が「わが国には、天皇陛下が退役将校を見送る前例はない」といって断ったという話を、故清瀬信次郎先生(東京裁判の弁護人・清瀬一郎氏の御子息)から聞いたことがある。

また、マッカーサーの執務室は、終戦前は、東部軍司令官室として使用されていた。東部軍司令官・田中静一大将は、青年将校による宮城占拠事件を解決した後、この部屋で見事な割腹自決を遂げられた。自決の際は、「観音経」と共に生長の家の「甘露の法雨」というお経もそばに置かれていたという。

この後、麻布の韓国文化院内にある「在日韓国人歴史資料館」見学。在日韓国人の我が国への渡航の事情、生活実態、反抗活動などの資料が展示されていた。韓国側の歴史観によって展示されているので、日本のしたことはすべて「悪」という考え方の展示であった。そうした展示を見ながら、村田氏などからこの展示の間違っている点についての説明があった。

この後、韓国文化院会議室で開催された「日韓文化講座」に参加。中村富江さんが「生きて帰れよ!死線を越えて、そして今」と題して講演した。中村さんは、十九歳の時、北朝鮮咸鏡北道慶興で終戦を迎え、そこから途中で父母を亡くしながらも、三十八度線を越えて、ソウルを経て、帰還した悲惨なる体験を語った。何んとも筆舌に尽くし難い苦難の連続の体験である。中村さんは「ソ連兵」とは言わず「ロスケ」と言われた。ロスケは、日本人婦女子を強姦した。強姦された日本女性は木に綱を懸けて自殺した人も多かったという。中村さんも危うく強姦されかかったという。中村さんのお話はとてもここには書くことはできない。後日、あらためて報告したいと思う。

今日の催しに参加し、ご自分もシベリアに抑留された方は、「戦争は良くない。しかし、ロシアにだけは復讐に行きたい」と漏らしておられた。

有意義な催しを企画し、主催された村田春樹氏に感謝する。

帰宅後は、原稿執筆など。

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