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2008年6月21日 (土)

千駄木庵日乗一月二十日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は資料の整理など。

午後六時より、平河町の都市センターホテルにて、「興亜志士研究會」開催。

伊達宗義氏が講演し、「伊達氏は、鎌倉時代、源頼朝の奥州合戦に従軍し戦功を挙げた伊達朝宗を始祖とし、十七代目の伊達政宗は仙台藩祖となった。その長男の秀宗は庶子であったため、本家の家督を継がず伊予宇和島10万石を別家として継ぎ、その初代藩主となった。

伊予宇和島藩八代目藩主・伊達宗城(むねなり)は、福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉と交流を持ち「幕末の四賢侯」と称された。宇和島藩は尊皇藩として活躍。仙台の本家は佐幕。宗城の長男・伊達宗敦は仙台藩第13代藩主・伊達慶邦の養子となり、本来なら慶邦の後を継いで第14代藩主を継ぐはずであったが、養父・慶邦が奥羽列藩同盟の盟主となったために新政府軍から謹慎を申し付けられたとき、宗敦も廃嫡されてしまったため、跡を継ぐことができなくなった。

宗敦の六男が私の父・伊達順之助。順之助は暴れん坊で、皇族方に迷惑をかけてはいけないということで学習院に入れてもらえなかった。麻布中学・慶応普通部などを転々として海城中学を卒業。明治四十二年、築地のヤクザといさかいを起こして果たし合いになり、相手を射殺した。正当防衛が認められ無罪に近い処分となったが、爵位礼遇は停止された。

大正五年、蒙古独立を企画し、満蒙決死隊を結成した。パプチャップ将軍を中心として活動。パプチャップ将軍戦死後、張作霖を除いた方がいいという考え方の人がいて、暗殺団結成。父も参加。

大正八年、昭和天皇が皇太子の時、良子妃殿下との婚姻に長州の山形有朋がイチャモンをつけて来た。そこで、山形有朋暗殺計画が立てられ、私の父もその中に入っていた。司法大臣・大木遠吉の奥さんが伊達順之助の姉だったので、司法大臣の官邸で暗殺計画が立てられた。

大正十年に、朝鮮に渡る。朝鮮総督の斎藤実海軍大将は、伊達藩に属していた水沢出身なので破格の待遇を以て迎えられ、国境警備隊長に任じられた。大正十年に私が生まれた。

大正十三年に満州に行き、第二次満蒙独立運動に参加した。そして第二次満蒙独立運動失敗後は山東自治聯軍に参加。日露戦争当時、ロシアのスパイをしていた張作霖が日本軍に捕縛され危うく処刑されるところであったが、張に見所を認めた陸軍参謀次長・児玉源太郎に助命された。この時、児玉の命令を受けて張の助命を伝令したのが、後の首相・田中義一である。

田中義一は張作霖をうまく使って満州を日本のものにしようとしていた。張作霖爆殺は、関東軍がやったということは皆感じていた。二十七、八歳であった張学良は北京にいたが、変装して奉天に帰った。張学良に対する懐柔工作が行われたが、受け付けるわけがない。張作霖爆殺が、日本の大陸政策に後まで響いてくる。

易幟(四宮注・張学良率いる北洋政府が使っていた五色旗から国民党の旗である青天白日満地紅旗に旗を換え、国民政府に服属を表明した事件。実際には蒋介石による満州への不干渉を認めさせ所領の独立を保つことに成功する)が起った。形式上満州が国民政府の下に入ったことを意味した。これは日本が一番避けようとしたことだった。張学良は東北軍司令となる。

伊達順之助は昭和六年に日本国籍を離れ中国国籍を得て中国に帰化した。頭山満先生が『大西郷遺訓』で『南洲翁が常々いはれていたといふ言葉に「日本は支那と一緒にせんければならぬ。それには日本人が日本の衣物を着て、支那人の前に立っても何にもならぬ。日本の優秀な人間ほどどしどし支那に帰化してしまはねばならぬ。そしてそれらの人々によって支那を道義の國に、立派に盛り立ててやらんければ、日本と支那とが親善になることはできぬ」といはれていたものぢゃ。今日までも日支親善を説くものはるが、支那人になれと言ふものは一人も見當たらぬ』と説いているのを実践した。父は『俺は日本を一番知っている支那人になる』と言っていた。こういう志を持った人がもっとたくさん出ていたら日支関係は変わっていただろう。

昭和六年に中村震太郎事件、万宝山事件が起こった。九月十八日に柳条湖事件・満州事変が起る。短時日のうちに満州全体を関東軍が押さえた。昭和七年六月二十日満州国軍陸軍少将となる。昭和八年二月隷下部隊を率いて熱河作戦に出動。『塘古停戦協定』が締結されたが、華北民衆に大変大きな不平不満を抱かせた。昭和十年の『梅津何応欽協定』『土肥原秦徳純協定』は北支全体に一触即発の反日機運を醸成させた。そういうガスが充満していなければ大きな爆発は起きなかった。戦争は両方の正義がぶつかり合う。

昭和十二年七月七日盧溝橋事件が勃発。七月八日朝には中国共産党が『戦争が始まった』と全国に電報を打った。中国共産党の陰謀説は消えない。板垣・石原・伊達の三人が話し合い、伊達の率いる軍を満州国軍籍から削り、三海関から南へ入った。部隊解散後、父はひきこもる。

昭和二十年十一月十七日、国民党中央調査統計局により逮捕拘禁される。その時私は『父一人を殺させるわけにいかない。私も行く』と言った。数ヶ月間地下の牢屋に二人で過ごし父の話し相手になった。二十一年六月、上海戦犯収容所に移送。二十三年六月一日、国府国防部上海審判戦犯軍事法廷で死刑判決。九月九日執行される。」と語った。

帰途、知人と懇談。それが長くなり、久しぶりに痛飲。帰宅後そのまま就寝。

           ○

伊達先生のお話は実に勉強になりました。何故日支は戦わねばならなかったのか。その原因を正しく追求することは大切です。伊達先生は実に折り目正しく且つ礼儀正しい方であります。やはり持って生まれた血筋・品格によると申し上げたいと思います。

小生の父と大体同年輩で、父と同じく警察予備隊として発足した当時から今の自衛隊に勤務された方です。それだけに親近感を持たしていただいております。御先祖の伊予宇和島藩八代目藩主・伊達宗城公の御墓は私宅近くの谷中墓地にあります。時々仰がせていただいております。

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