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2008年4月27日 (日)

千駄木庵日乗四月二十五日

朝、父母のお世話。

昼、日航機にて、札幌へ。

宿舎に荷物を置いた後、大通公園を目指して散策。

途中、重要文化財に指定されている北海道庁旧本庁舎を見学。
この庁舎の建築様式は、アメリカ風ネオ・バロック様式といわれ、明治二一年(一八八八)完成。レンガ造り。周りの池のある庭園も美しい。


大通公園に至る。明治二年(一八六九)年に北海道開拓使が置かれ、開拓判官の島義勇(しま よしたけ・後に明治天皇の侍従、秋田県県令などを歴任)は、無人の原野であった札幌に「五州第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想を描き、京都や故郷佐賀等の城下町を念頭に置いて、碁盤の目のような整然とした町並みを目指し工事が進められる。碁盤の目状の区画の南北の軸が今日の大通公園となる。島義勇の更迭後に建設の指揮をとったのが岩村通俊である。

島義勇は、佐賀藩士で、後に、佐賀に帰京して江藤新平と共に佐賀の変を起して敗れ、処刑される。しかし、今日「北海道開拓の父」と仰がれている。

一方、後任の岩村通俊は、土佐藩士で、北海道長官、農商務大臣、宮中顧問官などを歴任する。通俊の弟の岩村高俊は、長岡藩家老河井繼之助の中立歎願を拒絶し、北越戦争の発端をつくった人物である。後に佐賀県令となり、高圧的な政策をとって「佐賀の変」を誘発する。歴史というのは皮肉な巡り合わせを現出する。岩村兄弟の墓は谷中墓地にある。

明治維新そしてその後の日本近代化の歴史は、色々な矛盾や錯誤があった。しかし、歴史は巨視的に見なければならない。一人の人物も、大変な国家国民への貢献をしても、時局の変遷や時勢によって逆徒となってしまうことがある。一面のみを見てその人を評価してはならない。島義勇も江藤新平も、そして彼の大西郷も一時は逆徒とされたが、後に、賊名を取り除かれ、神と祀られ、銅像まで建てられている。

大通り公園には、「聖恩無彊」と刻まれた大きな石碑が立っている。裏面に「昭和十一年、昭和天皇北海道行幸、陸軍特別大演習云々」と刻まれているが、そばに近づくことができず、全てを判読できない。碑のそばに、由来書きを立てるべきである。

午後六時より、「かでる21」にて、『草莽志塾』開催。主催者の出口吉孝氏が挨拶。小生が「皇室制度と戦後体制」と題して講演。多くの参加者があり、活発な質疑応答が行われた。終了後、懇親会。

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