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2008年4月16日 (水)

千駄木庵日乗四月十五日

朝より、父母のお世話。その後、父の付き添いで病院へ。今日は定期的な診察と治療です。医師の方が適切な診察と処置をしてくれるので助かります。

午後は、父母の介護の相談で、区役所に赴く。介護についてもいろいろ体験しています。色々改善すべき点が多くあるように思えます。ともかく、患者特に老人は「弱者」であるというのは本当です。余程家族がしっかりしていないといけません。一人暮らしの老人はそういう意味で本当に気の毒です。

この後、区役所のそばの小石川後楽園に赴く。後楽園は寛永六年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となる)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した。光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」(北宋の政治家笵仲淹『岳陽楼記』の一節・優れた為政者は心配事については世の人がまだ気付かないうちからそれを心にとめていろいろ処置をし、楽しみは世の人の楽しむのを見届けたあとに楽しむ、という意)から「後楽園」と名づけられた。 

庭園は池を中心にした「回遊式泉水庭園」。庭園の随所に支那の名所の名前をつけた景観を配している。光圀の儒学思想の下に築園されているという。しかし、庭園の風景は、支那式の庭園とは全く異なり、けばけばしさは全くない。自然の美しさをそのまま庭園に生かしたものとなっている。純日本の景色である。

この地は小石川台地の先端にあり、神田上水の分流を引入れ築庭されました。琵琶湖を模したという大泉水という大きな池と小さな池があり、水を生かした清々しい庭園である。お天気が良かったせいか明るく開放的な感じがした。

園の北側は、梅林、稲田、花菖蒲、藤棚の田園風景。庭園の中に稲田があるのは、後楽園だけという。これは農民の苦労を、水戸光圀が彼の嗣子・綱条の夫人に教えようと作った田圃であるという。こうしたところから水戸黄門の伝説が生まれたのであろう。

奥まった所に「藤田東湖先生護母致命之處」と刻まれた石碑がある。安政二年(1855)の大地震がおこり、水戸藩邸が倒壊した。藤田東湖は母を助けて外に出たが、母がその時、火鉢の火が危ないと、再び屋内に引きかえした。東湖は母を救い出そうと家にもどった時、鴨居が落ちてきた。東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭に出した。しかし、東湖は力つき、その下敷きとなって圧死した。


その場所は白山通りで、そこに記念碑があったが、拡幅かくふく工事のため道の中になってしまった。そこでその碑は、後楽園庭園内のこの地に移されたという。

勤皇家であった藤田東湖は「孝」の実践者でもあった。と思う。まさに忠孝精神の体現者であったのである。

また「陸軍造兵廠 東京工廠跡記念碑」もあった。陸軍造兵廠東京工廠は、明治時代に旧水戸藩邸跡地に設立され、各種兵器や・弾薬の製造を行っていた。しかし、関東大震災によりその工場等施設は打撃を受け、昭和八(1933)年に九州小倉に移転した。移転後、跡地は後楽園球場等の施設が建設されたという。

後楽園は、本当に美しい景色を見せていました。新緑が日に照らされて清らかでした。さわやかな風が吹き、鳥のさえずり、羽ばたきの音も聞こえました。森の中に入りますと、山中を歩く思いがしました。光圀・斉昭の尊皇精神そして幕末安政時代の動乱の歴史を偲びつつ、散策しました。

帰宅後は、明日のスピーチおよび明後日の萬葉集講義の準備。

有村・稲田両議員に対して、以前、西村眞悟議員に対して行われたと同じような朝日新聞・テレビ朝日による理不尽な非難攻撃(英語ではバッシングと言うようです)が始まった。特に週刊朝日は右翼民族派との離間を策す記事になっています。「アカイアカイアサヒアサヒ」という言葉を想起します。

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