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2008年3月29日 (土)

千駄木庵日乗三月二十八日

午前は父母のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後二時、千代田区のある雑誌社訪問。編集長と懇談。

その後、靖国神社参拝。遊就館にて開催中の「特別展・幕末維新展」参観。

案内書によると「本年は安政5(1858)年に安政の大獄が始まってより百五十年、また明治維新百四十年の節目の年に当たります。
嘉永六(1853)年のペリー来航を契機として我が国は大きな転換点を迎え、国論は開国か攘夷か尊王か佐幕かに分かれ、「安政の大獄」や「桜田門外の変」という大事件が次々に起こっていきます。
この疾風怒涛の幕末動乱を経て、明治維新が成り、幕藩体制に代わる天皇を中心とした近代国家へと生まれ変わります。
この間には靖国神社の御祭神でもある坂本龍馬、橋本左内、吉田松陰等の若き志士達が次々と登場し、また殉難していきます。
今回の特別展では、これらの御祭神たちが幕末の動乱期にどう思慮しながら行動をし、我国がアジア諸国で唯一近代国家の成立という偉業を成し遂げたのかを中心に御遺書や史資料・絵画等を展示致します」との趣旨で開催された。

徳川斉昭所用の陣羽織・ナポレオン三世より贈られた徳川慶喜所用の騎兵甲冑、戊辰戦記絵巻、西郷隆盛・平野次郎國臣・高杉晋作の指名手配書(刑部大輔松平阿波守が告示したもの)、吉田松陰像、橋本左内像など明治維新に関する多数の文物が展示されていました。維新の歴史がよく理解できるような展示内容でした。

公家・御三家・御三卿・親藩大名そして多くの勤皇の志士を弾圧した井伊直弼の強硬策が徳川幕府解体の原因になったことは明らかです。

御三卿とは、徳川将軍家に後嗣がない際に後継者を提供する役割を担う家のことです。吉宗の時代につくられた制度です。三家の当主は、公卿の位である従三位に昇り、省の長官(卿)に任ぜられる例であったから御三卿といったそうで、このことからも徳川将軍家は、上御一人・日本天皇の臣下であるとの自覚はあったわけです。

安政の大獄では、御三家の徳川斉昭(水戸)、御三卿の一橋慶喜(斉昭の子息)、そして親藩筆頭とされる松平春嶽さえも、井伊直弼によって断罪されました。これが深い恨みを買い、水戸脱藩浪士と薩摩藩士によって井伊は天誅を加えられたのであります。幕閣の最高権力者が江戸城登城の途中で殺されたということが、徳川幕府の権威を大きく失墜させ、維新の導火線になったのであります。

遊就館参観の後、境内の桜を観賞。そして九段坂を下り行き、牛が淵の桜を観賞。今日は桜が満開で、「桜花爛漫」という言葉のままでした。九段には、大村益次郎・大山巌・品川弥二郎の銅像が立っています。薩摩・長州の人々です。江戸町民からすれば、上野の西郷像・警察学校の川路利良像も含めて、言ってみれば「進駐軍」の指揮者たちであります。徳川家康像が江戸東京博物館に建てられたのはごく最近であります。

戦後日本には、アメリカ軍が進駐してきましたが、幸いに、マッカーサーの銅像は立てられませんでした。そこで一首。

「日本人の誇りとすべしわが国にマッカーサー像が建たざりしこと」

              ○

九段界隈は、私にとって極めて親しいところであり思い出深いところです。四年間二松學舎大学に通い、卒業後も、同大学付属図書館に六年間に勤め、退職後も、靖国神社に度々参拝のため九段に来ているからであります。また何人かの友人同志の事務所も九段にありよく訪問したからです。

私の学生時代には須田町・角筈間の都電が走っていました。(今や角筈という地名もなくなりました)学生時代にあった商店・食堂などはその多くがなくなりました。最近は老舗だった大周楼というすき焼き屋もなくなりました。しかし九段上角の寿司清という小さなお寿司屋さんはまだあります。今日も久しぶりのそこのオヤジサン、と言っては失礼、ご主人にお会いしました。そのご主人の話によりますと、バブルの頃、自分の家を売ってよそに越して行った人が多いとのことです。またビルにした人は、今はテナントが入らなくて困っているとのことです。

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