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2007年10月23日 (火)

千駄木庵日乗九月二十二日

午前は、父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後二時より、上野寛永寺大書院にて、「上野の山文化ゾーン講演会」開催。浦井正明(寛永寺執事長)が「明治政府と彰義隊」と題して講演し、「彰義隊は正規の幕府軍ではない。明治政府が幕府軍というイメージを作り上げた。もともとは一橋徳川家の組織で『橋府随従の有志』『尊皇恭順同志会』という名称であり、官軍に楯突こうとしたのではない。浅草本願寺で阿部杖作が『彰義隊』と名付けた。将軍の床几(しょうぎ)という意味もあった。

徳川慶喜が上野寛永寺で謹慎していたので、上野へ行って慶喜を護ろうと考えた。

一橋家は領地・石高・家臣が少なかった。重役も幕府から派遣された。彰義隊初代頭首の渋沢成一郎(栄一の従兄)も二代頭首の天野八郎ももともと豪農の出身で、幕末それも慶応年間になって一橋家の家臣になった。慶喜が将軍になったあと幕臣となった。渋沢と天野は慶喜と一緒に水戸へ行きたいと願ったが、絶対に朝廷と戦わないという信念を持っていた慶喜はこれを拒否。

渋沢・天野は武家という身分にはなったが、幕府軍を指揮する立場ではなかった。勝海舟が彰義隊を江戸の治安維持のために利用した。彰義隊は寄せ集めの軍隊であり、正規の幕府軍ではない。幕府からの解散命令も拒否した。

西郷隆盛は『他の誰を許しても、慶喜だけは切腹させる』と言っていたが、明治元年、『死一等減ずる』という処分にし、翌二年には朝敵の汚名も外した。のち、勲一等を授与された。一方、西郷さんは西南戦争で朝敵となった。しかし、同十五年に朝敵の汚名を外され、二六年には銅像が建てられた。この二つのことは、旧幕臣と旧士族を慰撫するために行われたと思われる。

これに比して、彰義隊は明治六年まで遺族の墓参りすら許されなかった。明治四十年になってようやく上野戦争碑が寛永寺に建てられた。彰義隊が明治政府によって徹底的にたたかれたのは、寄せ集めの軍隊だったので、組織立った反発ができないからだったと思われる。明治政府は汚いと私は言いたい。」と語った。

実際に上野戦争の現場てあった寛永寺で、その歴史を聞くのは大変有意義であった。浦井先生はさすがに徳川家菩提寺である寛永寺の執事長あられるだけに、明治政府に対して相当の批判を持っておられる。浦井氏の見方を全面否定はできないが、西郷隆盛・徳川慶喜に対する明治政府の対処は、日本人の大らかさの反映であると私は思う。何もかも政治的思惑で行われたわけではなかろう。

明治天皇は西郷隆盛を深くご信頼あそばされていたし、徳川慶喜は、尊皇攘夷を唱え井伊直弼と対立した徳川斉昭の子息である。いつまでも朝敵の汚名を着せ続けなかったのは当然のことである。しかし、戊辰戦争・上野戦争は、戦争である以上悲劇もあったし、惨いこともあったことは事実である。であるがゆえに、今日に於いても、多くの人々が戊辰戦争・上野戦争の戦死者を弔い、慰霊しているのである。

午後六時半より、内幸町の日本記者クラブにて、「田久保忠衛氏の出版を祝う会」開催。櫻井よしこ・塚本三郎・屋山太郎・渡部昇一・石破茂・西村眞悟・許世楷の各氏らが祝辞を述べ、田久保氏が謝辞を述べた。大変な盛会であった。田久保氏は、親米主義者のように言われるが、まっとうな愛国者でありナショナリストである。

帰途、ある先輩と懇談。

帰宅後は、木曜日に行われる「しきしまの会」における講義の準備。

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