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2007年10月25日 (木)

千駄木庵日乗十月二十三日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は、ある会合に出席。スピーチ。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、「萬葉古代史研究会

」開催。萬葉集東歌を講義。

帰宅後は明日の「しきしまの会」講義の準備。

            ○

 徳川慶喜及び水戸藩についてもう少し書いておきたい。水戸藩は明治維新の前哨戦において多くの犠牲を出した。安政の大獄で先覚者が処刑され、桜田門外の変・英國大使館襲撃・坂下門外の変・天誅組挙兵・生野挙兵そして筑波挙兵に幾百人の水戸藩の志士が参画し血を流し命を捧げている。

だが、水戸藩は長州や薩摩にのような倒幕の主勢力になることはできなかった。つまり明治維新政権の廟堂(政治をつかさどる所)に立つことはできなかったのである。悲劇の藩と言わねばなるまい。

 しかし、明治天皇は明治八年(一八七五)四月四日、桜の花のま盛りに、東京小梅村(現在の墨田区)の徳川昭武(水戸藩第十一代藩主・斉昭の十八男、最後の藩主)の屋敷をお訪ねになり、光圀・斉昭らの遺墨を御覧になり、

「花ぐはし 桜もあれど 此やどの 世々のこころを 我はとひけり」

 と詠ませられた。『大日本史』を淵源とする水戸學の大義名分論、尊皇攘夷思想が明治維新の思想的原動力であったこと、そして光圀・斉昭の功績のみならず、斉昭の子にして徳川第十五代将軍となった徳川慶喜が、大政奉還を断行し、鳥羽伏見の戦い以来、フランス公使ロッシュの徹底抗戦の勧告を退けて、一意恭順を守り、外國からの侵略に対する日本立國の危険を除去した慶喜の尊皇愛國の心を嘉賞されたと拝する。    

  

 徳川慶喜は、明治三十一年(一八九八)三月二日宮中に参内、明治天皇・昭憲皇太后に拝謁した。そして同三十三年には麝香間祇侯(宮中席次に類するものとして、宮中における優遇者に特定の部屋に入って控える資格が与えられた。麝香間祇侯は、天皇御自ら官に任ずる親任官待遇の人から選ばれた。「祇」とは至るという意味)、三十四年公爵、大正二年(一九一三)十一月二十二日の死去に際しては、旭日大綬章を賜った。

ただこのような慶喜晩年の栄誉は、彼自身の功績によると共に、多くの水戸藩尊攘の志士の犠牲があったからであることは指摘しておかなければならない。

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